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2010/11/14

シネマ哲学カフェ/『ソフィアの夜明け』

みなさま

寒くなってきましたね。中川です。

ブルガリアの映画
『ソフィアの夜明け』
で哲学カフェを行いました。

参加されたのは6名。
映画はなかなか盛況の様子。

「ソフィア」ってブルガリアの首都のことなんですねー。
知らなかったです。

さて、カフェの様子ですが、
都市化が進み、ネオナチの暴動が起こる荒廃した街で暮らす
兄弟の話。主人公(たち)の漠然とした「いらいら」みたい
なものがずっと続く「希望の無さ」がこの映画の背景に流れ
ているという話が、まずは出ました。

暗いトーンで淡々と映画が進んで行くので、すこし見ていて
しんどかったという人もいました。

薬物依存の治療を続ける主人公イツォの告白の中の台詞にそ
ういう様子が見て取れると思います。(正確な引用ではない
ですが。)

・すべての人を愛したいし、抱きしめたいんだ。
・「善」なんてどこかにあるのか、もし「善」が足の裏にあ
 るのなら、針で取り出して頭にいれてくれ。
・魂を冷蔵庫に置き忘れてきてしまったみたいだ。

すべての人を完全に愛したい、でもそれができない。
完璧に善いことをしたい、でもそれができない。
だから、すべてのことが空虚に思えてしまう。

自分が輪郭はどんなものか、自分の善さはどのくらいかを見失
った人々の荒廃が描かれていたのではないだろうか。

ひとつの代弁は、イツォが惹かれるトルコ人の女性が行ってい
たのかもしれない。「この世界に何か間違ったことが起こって
る。そう思うでしょ?」いわば、世界の側の何かが悪くて、我
々はそれに巻き込まれているだけだというような。
でも、イツォはそれにイエスともノーとも答えない。

イツォは作品の終わりにすこしだけポジティブな方向に向かう。
それはどのシーンから変わったんだろう、ということが今回の
焦点になった。
「やっぱりあのおじいさんじゃないかな」

絶望の後の朝方、おじいさんに「そこの若いの、荷物をもって
くれ」と頼まれるイツォ。段ボールを引きずるおじいさんは、
盗られるかもしれないのに、イツォに段ボールではなくって、
自分の荷物を渡す。

そのまま、おじいさんのアパートに行ったイツォは「ここは
昔じぶんがいたところだ」と言って、うたた寝をしてしまう。
目が覚めるとおじいさんが子供になっていて・・・

自分が満ち足りていないという絶望をいやすのは、カリスマの
ある予言者のような人ではなくって、そういう「ふつう」の信
頼なんじゃないか、ということが話し合われた。
自分ができないような誇大な期待ではなくって、「荷物をはこ
ぶ」みたいな。

もし、依存や空虚さの夜明けがどこかにあったとしたのなら、
自分の輪郭を失っていたことに忘れてしまうような、ふつうの
信頼だったのかもしれない。

さて、皆さんの哲学カフェへの感想ですが。
「一人で見てただけの時に比べるとずいぶん見方が変わったの
で、哲学カフェに来てよかった」と口々に言っていただけました。

ありがたいですねー。懲りずに続けて行きます。

それでは、また。