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2011/01/16

哲学カフェ/『苦しみってなんだろう?』

熊です。

とよなか国際交流センターで『苦しみってなんだろう?』という
テーマで哲学カフェをやってきました。

思えば、センターとの付き合いも長くなってきました。
今回も充実した議論だったと思っています。

近頃、ALSという難病の患者さんたちと偶然付き合うことになりました。
あるとき、こんなことが言われました。

「精神的な苦しみということがあります。尊厳死、尊厳死なんて言うの
ではなくて、そういう苦しみをケアすることのほうがはるかに重要だと
思うのです」。

この言葉が引っかかって、そのままテーマにした、と口火を切りました。
大まかには、「苦しみとは何か」と「他人の苦しみを受け取ることはできるのか」という二つの問いかけが繰り返し問われた、と思います。

何を「苦しみ」と捉えるのかは、人によって異なっている。
でも、受け取ってもらいたい、という意味では「苦しみ」は同じなのでは?
いやいや、「苦しみ」は受け取ってもらえないから、苦しいんだ。
「わかった」なんていう安っぽい言葉で、分かったフリをされるほど、
苛立つことはないでしょう?

我々は、苦しみそのものを、手で掴んで他人に見せることができない。だから、言葉で表現して、それを受け取ってもらうしかないのだ。
でも、もし、言葉で受け取ることすらできないなら……我々は苦しんでいる
人の傍らにただ、「いる」ということしかできないのではないだろうか。

苦しみには、身体的なもの、精神的なもの、社会的なものがありますよね?
いやいや、生きていることそのものが苦なんですよ。
食うか食われるかという生き物としての苦しみがあるだけで、文明によって
それが隠されているだけなんです。
……そんなことはないです。体の痛みだけが苦しみであって、他のものは
そこから派生しているだけじゃないですか。
いわば、我々は「苦しみ」という言葉で指せる何かを、言葉があることで
理解している。とすれば、苦しみとは後天的に習得されるものによって理解
される何ものかではないのだろうか……

今回は、偉大なテツガク者たちが、何人かの人たちに、だぶって見えました。
楽しかったです。

さて、何名かテレビの放送を見て、急いで駆けつけたという方も。我らが広告塔、鷲田さんのすごさを思い知った限りです。
それでは、また。


(写真は2010年11月20日開催
ことばで「傷つく」って?」から
進行役 金和永(大阪大学文学部))
*写真の無断転載を禁止します