ページ

2011/02/03

ゴリラ問答/言葉で傷つくということ

おはようございます。くまごりらです。

中之島哲学コレージュで「言葉で傷つくということ」をテーマに哲学カフェを行いました。参加者は46名。
言葉で傷ついた経験を話すと、おもーい空気になるだろうと予想していましたので、最初に進行役から例を出しました。

「見ていただいたら分かると思いますが、僕はでかいです。
 熊と言われると傷つかないけど、ゴリラって言われると傷つきますね。ドンキーコングって言われるとそんなに傷つかないですが」。

皆さんのこの例への食いつき方がすごかったですw
ほとんど僕のカウンセリングみたいになりました。
ゴリラという言葉にマイナスイメージを持っているから傷つくのでは?
初めて言われた時に蔑むような文脈で言われたからでは?
誰に言われるかによっても傷つく/傷つかないが変わるのでは?
この辺までは比較的和やかでしたが、

病気の犬の世話をしているときに「かわいそう」と言われて傷ついた。
障害のある方を、ひとりの人間として扱うと新聞に書いたが、「扱う」
という言葉が機械を扱うというニュアンスがこもっているということで
クレームを受けた。

この例が出たくらいから、徐々に場が真剣になっていきました。
何を言っても、どんな状況であっても、その振舞いが人を傷つけてしまう
ことはあるのだから、我々はその振舞いに対して覚悟を持たないといけない。

でも、傷つくということは、その場で「傷ついた」と言うことができる
なら、それは何らかの回復は、もうできている。
だって、本当に傷つくというのは、その場で何も言えなくなって、傷ついたか
どうかすら分からないっていうことでしょう?
そんな風に、言葉を奪われることが傷つくってことなんだ。

傷つくことが、そんな風に何が起こったか分からないから、傷つけること
に対する応答は、常に遅れてしまう。
傷つけたかどうかすら分からないという、その遅れに対して我々は気をつけ
ないといけないんだ。
そんなとき、言葉で傷ついたのに、体がこわばったり、動けなくなったりする。
だから、言葉で話しているつもりで、人を殴るように身体を傷つけているの
かもしれない……。

無数の発見があった、すばらしい哲学カフェでした。
なによりみなさんの言葉が、重く、力強かったです。

「『傷つく』ということが、はじめは 不ゆかいに思うこと程度のとらえ方だったのでどうかと思っていましたが、だんだん論議が深まって、有意義でした。いろいろと考えることができました。」

「大変面白かったがやっと興がのってきた時点でお開きとは残念」

「様々な意見が聴けた」

という言葉が参加者の皆様のアンケートから寄せられました。

さて、このテーマの元ネタは、ジュディス・バトラーの『触発する言葉』です。
もし興味がおありの方は、そちらを読んでもらえると更に面白いかもしれません。

僕もついつい、amazonで発注してしまいました。
さて、勉強。勉強。

*Blog内写真の無断転載を禁止します