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2011/05/14

5/11 「震災について、今私たちが考えたいこと」

こんにちは。カフェフィロのたかはしです。


 先日511日に中之島哲学コレージュにて、哲学カフェ「震災について、今私たちが考えたいこと」が開催されました。

進行役を務めた私自身も、震災が起こった当初はとにかく驚き、不安で、また亡くなられた方のことや家族や仕事、故郷を奪われた方のことを思うと自分のことのように辛く落ちこんでいました。そこから、

自分は直接は被災していないのだからもっとできることがある、と気づくまでに大分時間がかかり、それに気づいてからも何をしたらいいだろう、と考え行動しつつ、一ヶ月くらいたって「今回の経験について、哲学カフェをしよう」と思い立ちました。そこからも、「震災について考える」という距離と余裕があるからこそできる試みを、いつから始めたらいいのか悩みつつ、ちょうど二ヶ月たったこの日に開催を決めました。やや長くなりますが、話し合われた内容や進行役として思ったこと、について報告します。



 今回の災害をめぐる一連の事件については、いろいろな発言や報道がすでになされていて、そのなかのどれを聞くべきか、聞かないでいいかの選択自体が、すでに一つの行動であったりするわけですが、と前置きしつつ、報道されていることの繰り返し、「識者」の意見の受け売りではなく、皆さん一人一人の具体的な経験や実感を皆さんにしか語れない言葉で聞きたいと思っている、ということと、政府や電力会社の対応の批判、あの人/組織がこうすればよかったのに、という意見よりもできれば、わたし/たちがもっとこうしたい、こうすべきだったな、という意見が聞きたい、ということを最初にお伝えしたつもりです。

 そのせいか、発言(と発言される方ご自身や社会との距離感)に関しては、わりといつもの哲学カフェに近い出方だったなあ、と感じております。どんなテーマでも、個人的な経験や実際の自分の行為について話される方、それについてどう思うかをちょっと距離をとって話される方、日本とか、大阪は、というような大きな集団性のレベルに関心がある方、前向きな方、不安や心配、あるいは自分の感情にセンシティブな方、いろいろな方がおられますが、今回のカフェでも、このようにいろいろな方が来られた、という印象です。その意味では、よくもわるくも、大阪(在住の人)は「いつもの感覚」にやや近いレベルで今回のことを感じられるようになった、といってもよいのかもしれません。

 次のカフェに向けてのブレインストーミングのような感じで考えていたので、進行役から議論の焦点を提示することはしませんでしたが、いくつかのポイントで、異なる複数の意見が出てきていたと思います。そのポイントを紹介します。


・今回の震災(と被災された方)に対して、どういう態度、心持ちで応じるか、について

 自分が揺さぶられ、私は何をやっているんだろう、とかすごくしんどくなった、という方がいらっしゃり、でも、今の状況に感謝しなければならないと思い直した、この機会をありがたいものとして受け止めたい、というようなことをおっしゃったときに、別の参加者(壮年?の男性)が、「そんなたいしたことやないよ、これからもあると思っていかなあかんし、こんなことたいしたことない、すぐ乗り越えるっておもわなあかん」と言われた方がいました。後の方は、神戸の震災とその救援も経験され、日本にいる限り地震はあると思っているので、「今回の震災も特別なことではなく、少なくとも自分は災害で死ぬかもしれないというリスクは織り込み済みである、当然のりこえていけるし、行くべきである」というご意見だったかと記憶します。進行役の印象では、年配の男性方のほうが、たくましい、といいますか、「沈んでたらあかん、はよ元気になろ、大阪から元気を発信?!」というような方が多かったように思います。でも、私自身は落ち込みやすい(?)ほうなので、大阪でもしんどい思いしている人がいてもいいし、そのような気持ちの動きからもなにか見つけていけるものはある、と思っています。


・震災の「当事者」とは誰か?

 途中で進行役および私たちはたいした被害を被ってないのだから、被災者のことはわからない?被災者とはいえない、というような発言があったので、そこを皮切りにして、「今回の震災の当事者とは誰であるか」と聞いてみました。

 被災の程度によってそれは決まるだろう、という常識的な意見もありましたし、我々の生活に必要な物資を東北地方に頼っている以上、私たちの生活にも影響は出るだろう、その意味では我々も不便や影響を受ける、という意見、日本は災害当事国なので、日本人全体が当事者、という意見などいろいろでした。「当事者だからこうだろう、とか当事者でないからこうではないか、という決めつけでこまった思いをする人が出るのはよくないから、『当事者である、ではない』ということを安易に言うことには気をつけるべき」という意見を慎重に述べられた方がおり、なるほど、と思いました。


・大阪?にできること

 最後の方で、大阪という地域にできること、についてすこし話が盛り上がりました。

 これについては、大阪のみなさんは郷土愛が強いのか、首都機能をリスク分散して関西にも、という意見から、「では首都機能って何ですか?どの首都機能を移したらいいと思いますか?」ということを聞いてみると、「復興庁を関西につ

くる」「大阪証券取引所はすたれかけてるが、リスク管理のためにも東証はもっと分散したほうが」「メディア、マスコミの中心も関西にもあったほうが」というような意見が聞かれました。

 進行役の疑問として、「首都機能ってなぜ東京都、とか大阪府とかだけが持たないといけないんでしょうか、それぞれの地域がそれぞれのメディアや証券取引所を持ってはだめですか?」ということを挙げ、岡山在住のカフェフィロスタッフ松川さんからも「みなさん他の地域がどのような状況かご存知ですか?大阪はほかの地域に対してそれほどなにかができる、と真剣にお考えですか?」と大阪至上主義(笑)には警告が発せられました。


 他にも哲学カフェのテーマになりそうなキーワードとしては、「想定外、って何?」「芸術家(哲学など、生きるのには「無駄」とされる文化的活動を指す)は被災地に何ができるか」「震災と人災」「誠実な沈黙」などが出てきたように思いました。もちろん、「原発」も、ですね。原発については、専門家の意見も聞きつつ話し合いをするべき、という感想もいただきましたが、カフェの中では「私たちはどうして、専門家が答えを出してくれる、わかっているはず、という過剰な期待?をしてしまうのだろうか」というお声もありましたので、すこし開催の方法を考えてみたいと思います。今回の哲学カフェで「話し合われなかったこと」もあり、それもまた/もしかしたらそのことのほうが重要である、ということも忘れないでいようと思います。


 

 福島県の南相馬に実家があり、ご家族とともに被災された阪大の研究室の後輩のTさんがカフェに来てくださり、大変な状況、困難さにやや距離を置きながら、冷静に考えておられることを話してくださり、哲学カフェの要になる発言をしてくださいました。非常に感謝しております、この場を借りて、お礼申し上げます。他の参加者の方にも、貴重なご意見感謝しております。今後もカフェもぜひよろしくお願いします。

 長くなってすみません、次は5/21には福島で、5/28には東京で、震災についての哲学カフェが行われます。東京の進行は私なので、また報告ができますが、個人的には福島哲学カフェの「いま、〈ふくしま〉で哲学するとは?」にとても関心があります。参加したいなー。。。。。