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2011/07/25

シネマ哲学カフェ『ちいさな哲学者たち』参加してきました

こんにちは、まつかわです。
先週土曜日は大阪で、シネマ哲学カフェに参加してきました。

午前中にシネ・リーブル梅田で『ちいさな哲学者たち』を鑑賞し、いざ、会場のオリンピアへ。

実はここ、中之島哲学コレージュで『ツァラトゥストラはこう言った』のガイドをしてくださってる菊地さんが教えてくれたんです。

行ってみると、予想どおり、昭和感いっぱいの喫茶店。そして、予想外の定食系の充実ぶりにびっくりしました。


近所で働いているサラリーマンたちがランチを食べるなか、マスターの「うちでよければ、何時間でもいてくれていいよ〜」のお言葉に甘えて、コーヒー1杯でじっくり2時間。
14名の方が参加されました。

 私は、映画のなかでよく発言する子が偏っているのが気になって、思い切ってそのモヤモヤを口にしてみました。

「幼稚園で哲学の授業をする、“楽しい”以外のポジティブな理由ってあるのかな?」
「哲学が好きじゃない子にも、哲学の授業をする意義ってある?」

それに対して、何人かの方が映画のシーンに言及しながら答えてくださって、「哲学を学ぶことは、何を学ぶことなのか」、一緒に考えられたような気がします。

進行役の高橋さんの問いかけや、みなさんの意見をヒントに映画を思い返すと、改めて気づかされることがたくさんありました。


最初のうち子どもは、ただ思い思いにその都度思いついたことを口にしているだけだったこと。
テーマに沿って話すことも、「賛成!」「反対!」と意見を表明することも、理由や根拠を述べることも、他人の意見にじっと耳を傾けることも、最初からできたわけじゃない。
自分の考えを言葉で、きちんと根拠を添えて伝えること。
相手の意見が気に食わなくても、たたいたり、力でねじ伏せたり、無視したりしないこと。

それは、どこかで学ばないと、身につかない態度なんだろうな。

たぶん一人で映画を観ただけじゃ、そこまではっきり哲学を学ぶ意義に気づけなかっただろうので、参加してよかったです。
多忙な高橋さんに進行をしてもらえるように、こちらのブログでアピールした甲斐がありました(笑)。
進行の高橋さんも、参加してくださった方も、ありがとうございました。

2011/07/22

グリグラ哲学カフェ「国歌は必要か?」

こんにちは、まつかわです。
明日は、大阪でシネマ哲学カフェですね。
私も朝からシネ・リーブル梅田の上映を観て、参加するつもりです。

その前に、先週のグリグラ哲学カフェの報告をしておかねば・・・。

7月19日(火) グリグラ哲学カフェ
こんなちいさなお客様も?
この日の参加者は11名。久しぶりの10人超え!うれしい。
メインはお母さん(子どもの年齢は1歳未満〜大学生まで)ですが、学生さんや、この春に定年退職をむかえたという男性もいらっしゃいました。

今回、いくつかのテーマから選ばれたのは、「国歌は必要か?」です。
少し前に、国旗・国歌に関するこんなニュースがありましたよね。
お母さんたちは、どんなふうに考えているのかきいてみたくて、進行役の私から提案させていただきました。
国旗と国歌両方とり挙げるのとややこしいので、今回は「国歌」を中心に考えることにしました。

いろんな意見がでましたが、大きな論点は二つ。「愛国心」に関する議論と、「なぜ、歌なの?」という問いです。

愛国心とは何か?
「国歌は愛国心を育てるために必要」という意見と、「国を愛することと国歌を愛することは異なる」という意見がでました。「日本を愛する」というとき、「日本」とは何を指しているのでしょうか? 日本の文化や産業? それとも日本の(という)シンボル? 愛国心がないと社会性は身つかないというけれど、じゃあ、それを「国」に限定する必要性はどこにあるの?・・・などなど、疑問が次々重なります。


なぜ、歌なのか?〜歌がもつ力〜
「君が代は、メロディが歌いにくくて、あまり好きじゃない」という人がいる一方で、「古今和歌集に由来するという歌詞は素敵だと思う。」という声もありました。そこから、「でも学校では意味を教えてくれない、どうして?」という疑問、「歌には、言葉を、その意味を知らせないまま、心に刷り込んでしまう力がある」という指摘、「歌詞の意味を知りたい。知ってから選びたい」という声がでてきました。

関心の高さと発言量は比例しない!?
私自身は、国歌を歌ったことも、学校で習ったこともありません。音楽の教科書の一番後のページに載っていた覚えはありますが、毎年教科書に載っているわりに一向に授業で取り上げられる気配がないので、不思議に思っていました。それが国歌=国の歌だと気づいたのは、新聞を読むようになってから(たぶん中学生のとき)です。

今回の哲学カフェでとても興味深かったのは、例のニュースに関心がないという人ほど、入学式や卒業式で国歌が歌われることを当たり前と感じていたことです。
どちらかというと私と同じように、国歌を歌ったことがない人のほうが、関心が高い。でも、国歌に関する経験がほとんど(TVのスポーツ観戦ぐらいしか)ない。だから、発言数はそんなに多くない。
「あまり関心がない」といってた人がたくさん発言する、ちょっとめずらしいカフェになりました。



国歌の意味や歴史的背景について、知識は必要?
もうひとつ、いつもとちがったのは、歴史的背景などの知識がないまま考えるのが難しいテーマだということ。実際に話し合ってみて、改めてそのことを実感しました。
でも、最後には、私たちが国歌について十分に知らない、その事実を「歌」という特性と結びつけて問題化できたは大きな成果だと思います。

2011/07/21

病院で「意思疎通の難しい人とのコミュニケーション」を考える

こんにちは、まつかわです。
いま、くわばらさんのテツドク!報告を読みました。
嵐の夜に集まってキルケゴールを読む、ちょっとできない体験ですよね。

さて、同じ嵐の夜、こちらは大阪市内のとある病院の研修で進行役をして参りました。

病院スタッフ(主にナース)のみなさん、総勢50名ほどが、5つのグループに分かれ、現場での問題をヒントに設定されたテーマについて話し合う。私たちはこれを「倫理カフェ」と呼んでいます。
「倫理カフェ」では、具体的な現場の事例を参考にしつつも、いったん医療者としての視点から離れ、多様な視点で医療現場で起こる倫理的問題について考えられるよう、わざと、医療に限定されないテーマを設定しています。

今回のテーマは、「意思疎通の難しい人とのコミュニケーション」でした。

意思疎通の難しい人、いろいろ
私が進行役を務めたグループでは、まず、様々な「意思疎通の難しい人」の例をあげてみました。
人工呼吸器をつけた患者さん、赤ちゃん、意識がない人など、言葉で意思を確認し合うのが難しい人たち。
それから、クレーマー。こちらは、日本語は通じるのに、意思疎通が難しい人ですね。
反対に「言葉は通じないけど、意思疎通できる!」とあげられたのは、ペットです。
様々な例を比較するなかで、いくつかの発見がありました。

「通じた」、「通じない」の裏にあるもの
「意思疎通ができない」と感じるとき、それがどんな思いかはわからないけれど、「相手にも思いや意思がある」という判断が働いていること。それから、「わかってあげたい」という自分の思いも強く働いていること。
「通じた!」という判断は、相手の反応を知覚する自分自身のなかで起こっている、とても主観的な判断ではないかということ。

「意思疎通」と「コミュニケーション」はちがう?
また、「意思疎通」と「コミュニケーション」の関係については、こんな意見がでました。
「コミュニケーションと意思疎通はちがう。コミュニケーションを意思疎通のツールだと考えると、理解し合えないことにイライラする。でも、コミュニケーション自体を目的と考えられるときは、相手を理解できなくてもかまわない」
とても、明快な回答にグループ全員が同意します。

それでも、意思疎通が必要なのはなぜか?
しかし、「それでも、意思疎通できてるかどうか確かめるべき場面があるのではないか」という声がでて、最後にこの問題について、考えました。
特に、医療の現場では、治療の方針やケアの仕方など、患者の意思を確かめることが重要な場面がたくさんあります。
みなさんの意見をききながら、私は、「意思疎通が難しい」という悩みが、患者さんの意思を尊重する気持ちからでてきていることに改めて気づいて、「医者のいうとおりにしていればいい」という時代にはなかった悩みなんだろうな、と感動したりしていました。

今回、このグループでは、様々な例をあげながら、少しずつ医療者の視点から自由になり、考えを深めて、また現場の問題に返ってくるということが(かなりわかりやすい形で)できたような気がします。
普段の視点、社会的立場からはちょっと離れて、ちがう視点から考えてみる。
哲学的対話の得意技です。

このように、カフェフィロでは病院や職場、学校や地域への進行役派遣も行っております。
それぞれの現場に合わせて対話の場をつくれるよう知恵を絞りますので、こんなことがしてみたい、ここで対話ができるか、などお気軽にお問い合わせください。

2011/07/20

なんと嵐の日にテツドクのためだけに遠方から高速バスで!

ふたをあけてびっくりでした。1つ目はその日のその時間、近畿圏で大阪だけが警報を免れていたこと。2つ目はキャンセルが1件しかなかったばかりか、当日申し込みもあったこと。そして3つ目が表題のとおり、なんと嵐の日にテツドクのためだけに遠方からの参加者があったこと。中止にしなくて本当によかったと胸をなで下ろした次第です。(「24時頃のバスで帰ります」とおっしゃっていたのですが、無事に帰ることができたのでしょうか…。)

7/19のテツドクはキルケゴール『死にいたる病』を取り上げました。紹介者は服部佐和子さんです。
「ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係」「その関係において、その関係それ自身に関係すること」「関係そのものではなくて、関係がそれ自身に関係するということ」
来たか、やっぱり来たかというあの冒頭の段落には、「関係」という言葉が10回も登場します。頭を抱えてしまいますが、それを見越して、服部さんが予めイメージ図を作ってくれてました。それでもやっぱり難しいのですが…みなさんの話を聞きながら、私の中では少しだけ腑に落ちたところもあります。もし無数の関係性が自己において収斂しているとすれば、そんなことは絶対者との関係抜きでは起こりえない。関係を集約(総合)するための最後の関係が他者との関係にリンクしているという思考の筋道は、何となくわかるような気がします。(少し前にはやった言葉でいうと、そこでいう関係の関係は、直接的な関係というよりも、関係同士が併発するような、スーパービーンに近いのでしょうか・・・)。

今回は抜粋を一つずつ、丁寧にみていきました。ところどころ難渋を極める文章のせいもあって、いつもにくらべて静かな会でしたが、みなさん、眉間に皺をよせながら言葉を噛みしめていたような気がします。いや、実はお手上げ状態だったのかもしれませんが・・・(そういえば、私が前日にブログにあげた2カ所のうち1カ所が取り上げられてました。ちょっとだけ、うれしい。)

さて、終了後、遠方からいらっしゃった参加者と少しお話ししたのですが、参考になる感想を頂きました。哲学カフェと違って、私や紹介者への気兼ねもあって「発言していいのかな・・・」と躊躇われたり、発言した後に不安になったりということもあったようです。常連の方も増え、このところ油断気味なので、雰囲気作りやアナウンスも大事だなと改めて思った次第です。

ちなみにはるばる遠くからいらっしゃった理由は、関東では、大学以外でこのような哲学書に触れる場がなかなか見つからないからとのこと。哲学カフェは関東でもあるのですが、この種のイベントは意外と少ないんでしょうかね・・・。

次回は9月5日の月曜日です。予定では神谷美恵子さんを取り上げる予定です。その生涯と思想にぜひ触れてください。

参加者のみなさま、悪天候のなかほんとうにご参加ありがとうございました。/くわばら

2011/07/18

テツドク予告編・・・のつもりが台風も来ておりまして・・・

雨風がはげしくなってきました。明日、テツドク「キルケゴール『死にいたる病』」の開催を予定しておりますが、運悪く台風の上陸と重なりそうです。

いまのところは(18日22時現在)予定通り開催を考えております。とはいえ、交通機関に支障がでることも考えられますし、とても開催できないような風雨の状況もあると思います。その場合は急遽中止となるかもしれません。ご了承ください。すでにご予約頂いている皆様におかれましては、とりわけ遠方からいらっしゃる方は、ご無理のないようお願い申し上げます。

さて、中止にしてもよさそうなものなのに、そうしてないのは、ひとえに私(企画者)のわがままなんです。というのは、久しぶりに読み返したこの本がほんと面白くて面白くて、やれずにはおれなくなってしまったのでした。一節を紹介してみます。

「絶望とは、まさに自己を食い尽くすことにほかならず、しかもみずからの欲するところをなしえない無力な自己食尽なのである。しかし、絶望みずからが欲することとは、自己自身を食い尽くすことであるが、これが絶望にはできないのであって、この無力さが自己食尽のひとつの新たな形態となる・・・」

同じ事がこんなふうに言い換えられてます。

「それは、焼けることもやけ尽きることもありえないもののなかに、すなわち自己のなかに、絶望によって、火が投ぜられたことなのだからである」

こんな書き方、キルケゴールしてたんですね。その昔、この本はW先生(現O大学総長)の演習の授業で独語で読まされ、難儀しました。でも、この箇所を読んだ記憶がどうにも思い出せません。関係が関係するところの・・・という最初のあれしか、記憶にない。先生、不肖の教え子でごめんなさい…と、心中謝りかけたのですが、やっぱり読んでなかったですね、ここ。思い返すに、1回の授業で10行ぐらいしか進まなかったから、この引用箇所までたどりついたはずがなかったのでした・・・。

明日の紹介者の服部さんがこの箇所を取り上げるかどうかはわかりませんし、私がひかれたのはさらに別の箇所なのですが、みなさんもキルケゴールをこの機会に手にとってみませんか。

ただし、重ねて申し上げますが、気象状況・交通状況によっては急遽中止する場合もございます。ご無理のありませんよう。

/くわばら

2011/07/17

中之島哲学コレージュ/書評カフェ『がん 生と死の謎に挑む』進行役からの報告

小菅です。7月13日に開催された中之島哲学コレージュ/書評カフェ『がん 生と死の謎に挑む』にて進行役を務められた藤本さんからのご報告です。


「書評カフェ」(7月13日)報告
日本においては2人に1人が「がん」に罹り、3人に1人が「がん」でなくなっているというのが現状です。そうした中で、今回のカフェを行ないました。私は「がん」と向き合わざるを得ない環境にいつもいますので、「がん」をとりまく現状をとても深刻に受け止めています。しかし、いつも思うことは、参加される方は何を求めて来られているのかな、ということです。そのようなことを考えると、「カフェ」形式で医療のことを話し合うのは結構難しいといつも思います。でも、いつも問わざるを得ない自分も否めません。

ただ、「死」を話題にすることにまだまだ抵抗があるように思います。でも、一番の問題は、「まだ自分にふりかかっていない」ということが大きいのかもしれません。「病い」とは結局自己の身体の問題なので、頭だけで考えられるものではない、という感想がきかれました。

ですから、今回は実際にご自身が「がん」に罹り、「がん」と向き合っておられる立花さんの書籍を選びました。その書籍の中には、がんに対するエビデンスとともに、彼のリアルな体験が語られ、そこから彼自身が自らの生き方、死に方を問うているからです。

コピーミスなら避けられず、また、初期とはいえ検査でわかったときには、転移、浸潤していることもあるわけですから、どうしようもないですね。

このようなテーマでは、参加者に病気にまつわるさまざまな体験談を語っていただくのが一番よいのでしょうが、「もし、あなたががんに罹ったら」ということをみなさんに問うてみたかったので、「がん」という病気に特化しました。なぜなら、「がん」はみなさんが思っている以上に身近な問題であり、意識ははっきりしているだけに自分の死への姿勢がシビアに問われることだからです。

参加者の中には他人の話を聴くというより、ご自身の考えをまとめて、それを述べることに力点をおいて、言いたいことを述べて帰られる方もおられたようです。それはそれで、こういう機会にご自身の考えを整理していただくこともよいのではないかと思いました。

病気はなにもがんに限ったことではありませんが、予後がある程度わかるがん治療をどうするかは個人の価値観や人生観の問題と大きく関係し、会のあとで私の考えや姿勢があまり出なかったという感想をいただきましたが、進行役があまり自分の考えを述べるのは、私自身は「カフェ」の場では「よし」としていません。仮に、自分の考えを述べて、反対、賛成ということで活発に議論できればいいのですが、ある考え方に誘導してしまうこともあります。つまり、がんの治療(抗がん剤の治療)なんかやらない方がいい、がんの「標準治療」ってほんまかいな、というようなことを言っていいのかな、ということです。

また、こうした医療関連の話題には、何かしらご自身のかかええいる問題に対する解決策を求めて来られる方も多いような気がします。ですから、いつか、機会があれば、「がん」をとりまく現状についてこちらから情報を提供できればと思います。でも、そのときはまた状況が変わっているのでしょうね。コピーミスのない細胞の再生とか。

どなたかがおっしゃっていましたが、「がん」という病いが問題なのではなくて、家族や親戚(ぽっと出症候群)の問題が大きいということも事実です。

この身に起こっていない「病気」のことを考える難しさや、日本社会では家族との対話が不可欠であるなど、「リビングウィル」のかかえる問題でもあり、立花さんも書籍の中で書いておられましたが、「がんにもリビングウィルがあっていいのでは」ということです。

当日と同様、あまりまとまりのない感想でした。

以上です。

                              藤本啓子

2011/07/14

中之島哲学コレージュ/書評カフェ『がん 生と死の謎に挑む』

こすがです。7月13日に開催された中之島哲学コレージュ/書評カフェ『がん 生と死の謎に挑む』の参加者の方々のご感想をいくつか紹介させていただきます。今回は20名の方がご参加されました。

「自分ががんになったらと考えたことはありましたが、参加者の発言から、家族の視点を考えるきっかけをもらえてよかったです。「私ががんになったら、両親にどう伝えるか」」

「面白かったです。又機会があれば参加しようと思いました。」

「死⇒誰にも訪れるもの、新めて見つめなおす貴重な時間になりました。有難う御座いました。」

「非常に難しいテーマであったが、参加者一人一人がしぼり出すように発言しており、「がん」通じて生と死をともに考えるよい機会だった。」

「結局のところ、医者でも自分が病気になって初めて患者の気持ちが分かるように、ガンになってみないとどうしたいかは分からない。今、元気なときに出した答えも、実際ガンになったら違うこともある。 ただ、その時にどういう選択肢があるのか知っていた方がうろたえることが少なくてすむかもしれない」


以上です。

2011/07/12

中之島哲学コレージュ/新・哲学セミナー「ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』を読もう(2)」参加者のご感想

こすがです。7月6日に開催された中之島哲学コレージュ/新・哲学セミナー「ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』を読もう(2)」の参加者の方々のご感想をいくつか紹介させていただきます。
 
「ツァラトゥストラを初めて読んでみたのですが、難解だと思っていました。でも他のみなさんの様々な読み方に刺激を受け、もう一度様々な角度から読んでみようと思いました。ガイドの方もとても聞きやすい調子でテンポ良く話して下さり良かったです。」
 
「ツァラトゥストラはドイツ版ドンキホーテかも知れない。」
 
「哲学書を一人で読んだり、自分なりに勉強をしてから読んでしまうと、一通りの解釈でしか読んでないことに気付いた。さまざまな人の意見を聞くことで、私の解釈を相対化することができた。」
 
「初めてニーチェを読みましたが、もっとおだやかに説かれているのかと思ってたのですが、イケイケの強気で毒々しいせりふがニヤッとさせられて面白かったです。」
 
「年齢もばらばら、職業も(おそらく)ばらばら、こんなオープンスペースで「ニーチェ」を語ることに、目がくらむようなとまどい。30数年前に全力で読んで以来。今日はその古くさい書物を本だなのスミからひっぱり出してきた。まるまる30数年の空白を、うめる作業の時間になりました。少しずつ思い出しています。今度は、発言できると思います。こんなきっかけをもらったことに感謝しています。」
 
蒸し暑いなかであったにもかかわらず、40名もの方がいらっしゃいました。感想は「面白かった」「楽しかった」という好評ばかり。感想の中には他のニーチェの著作や、ヘーゲルやカントの著作を取り上げてほしいというものもありました。他の著作を取り上げたプログラムの開催も要検討ですね。

2011/07/11

夏のセミナー 哲学ファシリテーション入門3/哲学カウンセリングについて

こんにちは カフェフィロの井尻です。

恒例になってまいりました、カフェフィロ夏のセミナー。
今年は、2本のセミナーを開催します。
詳細が決まりましたので、ご案内させていただきますね。

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●哲学ファシリテーター入門3--対話の場をひらきたい人のために
2011年8月20日(土)、21日(日) 13:30~17:00
会場:とよなか国際交流センター 会議室(エトレ豊中6階)
定員:20名程度 要申し込み

医療や教育、まちづくりやアートの現場で、「対話」に注目が集まっています。対話は、いろいろな人が集まる場所で、経験を共有したり、互いに理解しあうために有効な方法です。しかし、そこにいる人とただ話すだけで対話の場をつくることができるのでしょうか? 今回は海外で広く行われている「哲学的対話」の進行の工夫、スキルを学ぶことで、どのようにすれば対話の場所を作りだし、対話を深めることができるのかを考えるセミナーを開催します。対話のファシリテーションやスキルに関心がある方、これからやってみたいと考えている方、大歓迎です。 みなさまのご参加をお待ちしています。

*「哲学ファシリテーター入門3」となっていますが、「1」「2」を受講していない方はもちろん、どなたでもご参加いただけます。

*全4回の連続講座です。お申し込み方法・プログラム詳細はこちらをご覧ください。
http://www.cafephilo.jp/fes/2011082021.html

●会員限定セミナー「哲学カウンセリングについて」
2011年8月6日(土) 
会場:とよなか国際交流センター 会議室(エトレ豊中6階)


ヨーロッパ諸国などで行われ、近年注目が集まっている哲学カウンセリング。それって何?どんなことをするの?という方のために、哲学カウンセリングについて知るためのセミナーを開催します。

*お申し込み方法・プログラム詳細はこちらをご覧ください。
http://www.cafephilo.jp/fes/20110806.html

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6日のセミナーは「会員限定セミナー」。ですので、受講者はカフェフィロ会員の方に限ります。
また、「哲学ファシリテーター入門3」も、会員の方は、割引価格で受講いただけます。

これを機に、賛助会員になる!という方も、大歓迎です。賛助会員募集に
ついては、こちらをご覧ください。
http://www.cafephilo.jp/aboutus/aboutus1_2_support.html

それでは、みなさまのご参加お待ちしています!

2011/07/07

「苦しみ」をめぐって 京都カフェ・サンナミジ

お待たせしました。
京都、カフェサンナミジで開かれた哲学カフェの報告です。


今回のテーマは、
参加者からのリクエストにおこたえして、「苦しみ」。
進行役は、大阪大学文学部4回生の杉山知紀さんがチャレンジされました。

参加者は20名の最高記録。
もう座るところがありません...
みなさん、次回は立ち見にならないように、早めに来てくださいね。


進行役杉山さんからの感想です。

「今回の進行役としては2回目の哲学カフェでした。前回はかなり緊張していたこともあって発言者を指名するだけで精一杯になってしまったところがあったので、今回はその反省も含めて、特に発言者の発言の中で理解しにくかった部分や、発言の意図の確認を中心に対話に関わっていくことを意識しながら進行するように心掛けました。この点に関しては、十分ではありませんでしたが、ある程度は出来たように思います。










内容的には、最初のあたりにかなり宗教的な話が出てきたのでそこからどういった展開になるのか予想できませんでしたが、話が進むに連れて徐々にいろいろな論点が出てきてとても面白かったです。特に、「動物の苦しみと人間の苦しみはどう違うのか?」、「『社会の中で人と関わり合う中で生まれる苦しみ』というのが人間特有の苦しみではないか。」、「人に自分の苦しみを語ることが難しいのはなぜか?」といった話が個人的に印象に残りました。」

次回は8月の開催を予定しています。
お楽しみに。

中之島でニーチェを読む。

こんにちは、まつかわです。
昨日は、菊地さんのニーチェツアー、第二回目でした。
(正式企画名は、中之島哲学コレージュ新・哲学セミナー「ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』を読もう(2)」、です。長っ!


本を読んでない人、持ってない人も参加できるのがこのツアーのいいところですが、私は、事前に読んで参加してみました。

第一回目の前回は、自分の読み方と菊地さんの読み方のちがいを楽しむために。
「え!そんなふうに読んでいいの?」と、驚きがあって楽しかった。

そして、第二回目の今回は、前回学んだ菊地さん風の読みを自分もできるかどうか試してみました。
菊地さん風の読み方は、ツァラトゥストラの言葉だけでなく、「どんなことが起こったか」にも注目しながら、物語のように読みます。
当日は、「あ、やっぱりここにコメントした!」「む、そこは、見逃してたな」なんて、思いながら参加しました。
そして、菊地さん以外の参加者のみなんさんの読み方に、「ああ、そんな読み方もあったのね!」と驚く。これもまたツアーの楽しみです。

まぁ、一番驚いたのは、菊地さんが、前回のみならず今回もまた、BGMを用意してきたことですけどね。

そんなサービス精神旺盛な菊地さんのニーチェツアーも、あと1回でとりあえず一区切り。
次回は8月3日(水)に開催の予定です。
「名所が続々」だそうなので、お時間のある方はぜひご参加ください。
詳細については、後日改めて、HPメルマガでお知らせいたします。

2011/07/05

セミナー「性・HIV 高校生からの投げかけ」参加者感想

こんにちは、まつかわです。


6月24日の中之島哲学コレージュのアンケートを、こすがさんがまとめてくださいました。
ほんの一部ですが、ご紹介しょう。




若い方たちも含めてこのような場で性についてオープンに語り合うのは大変興味深い体験でした。HIVへの理解を通して差別や偏見について、セクシャリティについて、人と人とのよりよい関係性について(対等な関係)などなどたくさんの問題提起をしてくれていると思いました。」

コンドームの正しい使い方は学校の性教育でもあまりくわしく習った記憶がなく、知らないことも多かったので勉強になりました。普段自分がHIVやエイズに対してあまりリアリティを持って考えていなかったのではないか、と、自分の認識の甘さをつきつけられたような気がしました。とてもいい機会だったと思います。」

 
性のことを語る時に妊娠や病気のことはイコールではつながらなくても切っても切れない関係だと思う。ただ、例えば「妊娠」に焦点をあてれば、そこに関係があまりないゲイやレズビアンの人たちはどうなるのか? 多くの人と学ぶことができる場をつくるというテーマをさがすというのはとても難しいなあと感じました」



「セクシャル・ハラスメント運動が性について話すことを難しくしているという逆説が指摘されたことは興味深かった。性が私的かつ公的であることが議論の展開を困難にしているのではないかと思った。」


「るるくOGですが、いろんな場で、いろんな立場の人の話をきける、きけたことが、すごく良かったです。新しい視点や発見がありました。」




その他、「もう少しファシリテーターの方がテーマをしぼってもよかったのかも」というご意見もありました。
うん、やっぱり、そうですよね。
進行役として反省すると同時に、るるくの活動が投げかける問いの多さ、重要さに気づかされました。


今回でた問いを一つずつじっくりみなさんと考えられるような企画を、また考えたいと思います。







2011/07/04

7月のブログアクセス数&メルマガ登録者数

こんにちは、まつかわです。
毎日暑いなと思ったら、もう7月ですね。
節電と熱中症予防で揺れた結果、つい冷たいものばかり食べてしまう毎日です。

月が変わったので、先月のアクセス数をチェックしてみました。
6月の総アクセス数は2,214。
一日のアクセス数は50〜150というところでしょうか。
おかげさまで、ぐっと安定してきたようです。

そして、気になる今月のアクセスランキングは?

  1. 8月のセミナー:予告編
  2. 東京で震災についての哲学カフェをしました
  3. セミナー「性・HIV 高校生からの投げかけ」

セミナーの予告が第1位とは意外! でも、うれしい。
ただいま、コーディネーターの井尻さんががんばって準備してくれているところです。
そろそろ詳細もHPやメルマガで告知されますので、お楽しみに。

ちなみに、メルマガ登録者は現在、650名。
登録すると無料で、毎月、哲学カフェやセミナーなどのイベント情報が届きます。
登録がまだの方は、こちらよりどうぞ。

2011/07/02

唸る。

本当に暑い毎日が続きますね。みなさま体調など崩されてませんでしょうか。私は瀕死です。

遅くなりましたが、6/13、さする庵で哲学カフェを開催しました。ふだんは〈テツドク〉を開催しているのですが、気分転換に哲学カフェも開催することがあります。「おひとりさまの自由と不自由」というテーマに、23名の方がいらっしゃいました。ちょっと驚きました。半分以上が初参加ですからさらにびっくりですね。椅子を追加し部屋はつめつめでした。当日の様子はさする庵HPをご覧下さい(→ こちら)。前半、私とスタッフの樫本さんはキッチンに立っていました。

「テーマに惹かれてくるんですかね」とスタッフと話していたのですが、そうなんでしょうか。最初に秋田さん(さする庵オーナー)と打ち合わせた際に出たテーマは少し違って「単独世帯の行方は?」でした。そこから少しくずし、今回のテーマを設定してます。みなさんだったらどんなテーマにするでしょうか。あるいはもとのままでしょうか。




「私は最終的には妻といろんなことをわかりあえるようになりたいし、そうなるように努めている」。

おひとりさまという生き方が現実にもつ意味合いは、男か女か、妻か夫かによって大きく違う。そんな話が続く中で、すっと手を挙げ、およそそのようにおっしゃった参加者がおられました。

正直、唸ってしまいました。たぶん私が同じことを言えば「やれやれ」と諭される一幕ですね。ただ、下を向き、丹念にメモをとっておられたその中高年男性が、その時、そのタイミングで、そのように正面切って、でもぼそっと話したその姿に、唸るほかなかったのです。「ほぉ・・・」という他の参加者の声も、いろんな表情とともに、聞こえたきがします。

その発言の中身がすばらしいかとか(→わかりあえるわけがないというのが大勢でした)、哲学的にどうかとか(→たぶんどうもこうもありません)、そういうこととは別のところで、聴く人の応えを待つ言葉がその場に生まれることがあると思います。途上の答えられていない問いを精査していくのが本筋だとして、道中脱線を承知しながら素通りできない言葉にふと応じてしまう、道草を食う自分なりの哲学カフェの楽しみ方を、久しぶりに経験した気がしました。*もちろん脱線したのは話者ではなくて、聴いていた私の側でのことです。

いま垂直跳びをしている人がいて、一方でその距離を測ろうとして、高さを正確に測定したり、跳躍距離を伸ばそうとしたり、はかりに間違いがないかどうかを確認しようとしたりしている人がいる。他方でそんなことをほっぽりだして、その場で一緒にぴょんぴょんジャンプし始めてしまう人がいる。そして、ときどき後者に目が釘付けになってしまって、何かを見ることがそこから目線を逸らすという仕方でしかできなくなってしまうことがある。たとえるとそんな感じでしょうか。うまくたとえられてないですね。要するに、素通りできない何かをその人の言葉と姿勢に感じとってしまったという、中身とは別の私の個人的感想なんですが。

話がずれてきました。結局何が話されたのか読み手には不明のままで申し訳ありません。最後の方はこんな話です。「家族だろうが、知人だろうが、誰だろうが、おひとり様も響き合うだれかがいなければ生きていけず、自由ではない」。参加者の多くが大筋で一致した意見ですが、響き合うとは何なのか。わかるようで、わからない。しかし、わかりあうでもなく、話が噛み合うでもなく、すれ違いながら、すれ違いざまに響き合ったり、一緒にジャンプしはじめたり、目が釘付けになり耳がダンボになり、大きな関心はないけど無関心ではいられなくなったりする、そんな関係性のことだと考えて良いなら、寄り道する道すがら思ったことと話はどこかでつながっているのかもしれません。

ご参加いただいたみなさま、ありがとうございました。/ くわばら

「ちいさな哲学者たち」試写会+トークショーに行ってきました

こんにちは、たかはしです。今日はすこしマシみたいですが、暑い日が続きますね。今までは暑いと安易にエアコンをつけていたのですが、今年はそれもいちいち考えてしまいます。

6月終わりの30日木曜日に、東京で映画「ちいさな哲学者たち」の試写会とアフタートークに呼ばれて行ってきました。(専門用語では「登壇」と言うそうで...)私のような小物をわざわざ「登壇」させなくても、と思いましたが、こどもと哲学するという活動を日本で実際にしている人があまりいないので、ということで呼んでいただきました。(カフェフィロではあまり行っていませんが、私自身は小学校での対話活動を時々させてもらっており、それをいちおう大学で研究しているのです。)

映画の後、上智大学の教員で臨床哲学研究室の先輩、カフェフィロメンバーの寺田さんと、日本大学の土屋さんと一緒に舞台に出て、三人が関心をもって関わっている〈こどものための/こどもとする哲学〉について、お話させていただき、観客のみなさんからも質問、ご意見をいただきました。
壇上の三人と5,60人のお客さんという舞台設定だったので、最初は観客のみなさんも「先生へ質問、教えて」モードだったのですが、私はこの映画を見て、「先生教えて」はないだろう、と思いまして、途中から勝手に哲学カフェモードに切り替え、質問に質問で返す、という対話形式に切り替えさせていただきました。。。
(会場のみなさんと寺田さん、土屋さんは驚かれたかもしれませんが、こどもたちと同様、対等に議論する楽しさをみなさんにも実感してほしい、と思ったものですから。。。)

それに何人かの方に応じていただき、いくつかの質問(論点)や意見が出され、みなさんもっと話したい!となったところで、お開きとなりました。
「こどもと大人との関係、子育てや教育にはいつも強制が伴うだろうか?、強制とはなんだろうか?」
「理性とは何か、理性と感情、理性と経験、理性と対話との関係は?」
などの哲学的な論点に話が及び、本当にいろいろもっと話したり、みなさんの考えを聞いてみたいことがいろいろ出てきて、「この続きは、シネマ哲学カフェ」でどうぞ、と宣伝させていただいたところで話はお開きになりました。

寺田さん、土屋さんは、この映画を見られるのが二回目、三回目とおっしゃっていて、回を重ねるごとにいろいろなことが見えてくる、とおっしゃっていましたので、まだ映画を見ておられないみなさんもぜひ、ご覧になってください。
「可愛く、愛らしい」こども、だけでなく、「ふてくされ、文句を言い、つっつきあい、居眠りする」こども、幼稚園なのに「こいびと」がいて、「こいびと」と別れたり、別れてもまだ好きだったり(泣)するこどもたちが、愛や自由、大人になること、貧しさや平等について彼らなりの言葉で語りだします。
大阪、神戸では、7/16に公開です。大阪でのシネマ哲学カフェは7/23にあります。

たかはし