ページ

2011/08/21

哲学カフェ「身ぶりは何を語るのか?」

こんにちは、まつかわです。
先日、中之島哲学コレージュの哲学カフェで進行役を務めてくださった楠本さんから、報告と感想が届きました。ご紹介させていただきます。


2011年8月10日(水)
中之島哲学コレージュ/哲学カフェ「身ぶりは何を語るのか?」


今回の哲学カフェでは「身ぶりは言葉を持たないお猿さんだった頃のなごり」という参加者の方のご意見から始まり、

・身ぶりは言葉を補充するためのもの
・身ぶりにはクセのようなものもある
言葉にはならない感情や伝えたいという一生懸命さがそこにあらわれているのでは
・伝えようとしていなくても身ぶりなのか(ex.赤ちゃんの寝返りなど)
・身ぶりかどうかは受け取る側の問題ではないか
・身ぶりは文化によって受け取られ方や表現の仕方が異なる
・言葉と身ぶりは密接に結びついている(セットである)
・身ぶりなしで伝えることはできるのか/言葉のみで伝えることはできるのか
・身ぶりだけでは具体性に欠けてしまうのではないか
・身ぶりと態度はどう違うのか

など、すべて挙げることができませんが、以上のような論点が話題になりました。

この問いを考えつつも、「身ぶりとは何か」という問いを必ず通らなければならず、いささか遠回りには思えますが、参加者の方がそれぞれ考える「身ぶり」について考えながらテーマの問いへと近づいていくという議論の道筋をたどりました。
「身ぶりは何を語るのか?」という問いがもともと複雑であったため、

対話をしていくなかで、一口に「身ぶり」といってもその区分がかなり多様だなと感じました。
「自分が意図していない身ぶり」や「他人が見て判断する身ぶり」についての意見が参加者の方から出ました。
特に興味深かったのは「身ぶり」を誰が決めるのかという論点で、
テーマを決める際には「言葉以外でなにが伝わるのか」ということを中心に考えていたため、
この論点は私にとってとても新鮮でした。
時間があればこの点についてさらに話をしてみたいと感じました。

また今回面白いと感じたのは、「身ぶり」について話しながらも「身ぶり」を見せ合うという場面がたびたび見られたことです。
これは実際に同じ場所に集まって会って話す「哲学カフェ」という場ならではだと思いました。
「哲学カフェ」では、その場でともに話すというだけではなくその場で実際に会うことで他人に向かっているということが重要なのではと改めて感じました

(報告:楠本瑶子(大阪大学文学部4回生)


楠本さん、ありがとうございます。

さて、次回の中之島哲学コレージュは、8月26日(金)、哲学セミナー「心を読む? 言語的/非言語的コミュニケーション」です。
進行は、理学療法士の玉地雅浩さん。
藍野大学の先生でもあり、毎年、身体ワークを交えたセミナーを担当してくださっています。

実は今回の哲学カフェは、次回のセミナーに合わせて楠本さんに進行をお願いしました。
もし哲学カフェに参加して、あるいはこの報告を読んで関心をもった方は、ぜひご参加ください。