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2011/09/20

中之島哲学コレージュ/哲学カフェ「見えないものはなぜ恐いのか」

こんにちは、まつかわです。
9月13日(火)にアートエリアB1で開催された哲学カフェのテーマは「見えないものはなぜ恐いのか?」でした。企画・進行は、実家が福島県南相馬市にある辻明典さんと、カフェマスターの本間さん。
辻さんには、前回「原発について何を知るべきか?」というテーマで進行をしていただきましたが、今回は原発の是非を問う議論に終始するのではなく、原発に関わりつつもそれだけにとどまらない人間の根本に関わるような問いについて考えたいということでこのようなテーマが選ばれました。
辻さんから報告が届いたのでご紹介させていただきます。




「見えないものは、なぜ怖いのか」というテーマを設定したのは約一カ月前でした。
対話を開始する前に、まず、もうひとりの進行役である本間さんと
二人で、(今月上旬に)福島で撮ってきた写真を交えながら簡単な報告をいたしました。
福島県内で販売している放射線の濃度が詳細に載せてあるマップ、全村避難となった飯舘村の写真などです。

以下が、今回出てきたいくつかの意見です。


・恐怖の本質とは何か?



・可視化することによって、見えないものに対する不安は軽減される。

・知識を得ることで不安は軽減されるかもしれない。しかし、完全に取り除くことは
できない。

・祈りは、見えない不安に対して行われる。

・低線量の放射線は、人体へどれほどの影響を与えるのかがまだわからない。不確定
な未来に対する不安がぬぐえない。

・例えばインフルエンザウィルスは目に見えないが、罹ってしまえばどのような症状
が出るかある程度の予測をたてることはできる。しかし、まだデータのない低線量の
放射能に対してはできない。


震災にかかわるテーマを扱う場合は、どうしても政治的なテーマやマスコミ批判の話を扱おうとする力が働いてしまうような気がします。
今回の哲学カフェでも、「脱原発」を話題の中心に据えたい方もいらっしゃいましたし、明確な結論に至ろうとしないスタイルに苛立ちを覚えた方もいらっしゃったかもしれません。

本間さんからの「放射線が通常値よりも高い場所であっても、そこで生活している人が確かにいる。」という発言に助けられ、「『脱原発』のように政治的なテーマを議論することも大切ですが、それをすることで福島で生活している人の姿が『見えなく』なるのかもしれないのでは?」という投げかけをすることができました。



辻さん、ありがとうございました。

辻さんが挙げてくれたインフルエンザの例や祈りについての発言のほかに他に、私が強く印象に残っているのは、「どうやって恐怖を乗り越えるか」という議論の流れのなかででてきた「恐怖は乗り越えないといけないのか?」という問いかけです。「恐怖をなくしたい」、私たちはそう思いがちだけど、恐怖を感じない状況というのは、それはそれでとても危険じゃないかと思うからです。

中之島哲学コレージュでは、「恐さ」に関する考察はこれ以上進みませんでしたが、同じ日の午前中に開催されたグリグラ哲学カフェでは、まさにこの問題が中心に論じられました。

もし、恐怖が、私たちが危険から身を守るために必要なものだとしたら? 感じないほうがいい恐怖と、感じた方がいい恐怖があるとしたら、それらの恐怖はどうちがうのか?

次回は、全く同じテーマで行われたグリグラ哲学カフェの議論をご紹介します。