9月13日(火)にアートエリアB1で開催された哲学カフェのテーマは「見えないものはなぜ恐いのか?」でした。企画・進行は、実家が福島県南相馬市にある辻明典さんと、カフェマスターの本間さん。
辻さんには、前回「原発について何を知るべきか?」というテーマで進行をしていただきましたが、今回は原発の是非を問う議論に終始するのではなく、原発に関わりつつもそれだけにとどまらない人間の根本に関わるような問いについて考えたいということでこのようなテーマが選ばれました。
辻さんから報告が届いたのでご紹介させていただきます。
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「見えないものは、なぜ怖いのか」
対話を開始する前に、
福島県内で販売している放射線の濃度が詳細に載せてあるマップ、
以下が、今回出てきたいくつかの意見です。
・恐怖の本質とは何か?
・可視化することによって、
・知識を得ることで不安は軽減されるかもしれない。しかし、
できない。
・祈りは、見えない不安に対して行われる。
・低線量の放射線は、
な未来に対する不安がぬぐえない。
・例えばインフルエンザウィルスは目に見えないが、
が出るかある程度の予測をたてることはできる。しかし、
放射能に対してはできない。
震災にかかわるテーマを扱う場合は、
今回の哲学カフェでも、「脱原発」
本間さんからの「放射線が通常値よりも高い場所であっても、
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辻さん、ありがとうございました。
辻さんが挙げてくれたインフルエンザの例や祈りについての発言のほかに他に、私が強く印象に残っているのは、「どうやって恐怖を乗り越えるか」という議論の流れのなかででてきた「恐怖は乗り越えないといけないのか?」という問いかけです。「恐怖をなくしたい」、私たちはそう思いがちだけど、恐怖を感じない状況というのは、それはそれでとても危険じゃないかと思うからです。
中之島哲学コレージュでは、「恐さ」に関する考察はこれ以上進みませんでしたが、同じ日の午前中に開催されたグリグラ哲学カフェでは、まさにこの問題が中心に論じられました。
もし、恐怖が、私たちが危険から身を守るために必要なものだとしたら? 感じないほうがいい恐怖と、感じた方がいい恐怖があるとしたら、それらの恐怖はどうちがうのか?
次回は、全く同じテーマで行われたグリグラ哲学カフェの議論をご紹介します。