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2011/09/26

哲学カフェ「見えないものはなぜ恐いのか?」

こんにちは、まつかわです。
お待たせしました。
中之島哲学コレージュと全く同じテーマ「見えないものはなぜ恐いのか?」で開催されたグリグラ哲学カフェの報告です。

グリグラ哲学カフェでは、毎回、当時集まった参加者と相談してテーマを決めています。
今回は、中之島哲学コレージュのプログラムを見た参加者から、「 夜は参加できできないけれど、このテーマについて話し合ってみたい!」と提案してくれました。

哲学コレージュでは、放射能以外の例はほとんど出ませんでしたが、グリグラでは、他にも、おばけ、暗闇、がん細胞、人の心、嫁さんの心(!)など、「見えなくて恐いもの」の例がたくさん挙げられました。




それぞれについて‥‥

「子どものころはおばけが恐かったけど、今はいないってわかってるから恐くない」
「それは、いないって信じてるからでしょう? 私はいるって信じてるから、大人になってもおばけが恐い」
「親がガンで亡くなったからガンで死ぬのは恐い」
「それは、ガンが恐いんじゃなくて、死が恐いんじゃない?」

‥‥などなど、なぜ恐いのか理由を考えていくうちに、2つのキーワードが浮かびあがってきました。
「知識」と「想像力」です。
「正しい知識」があれば恐くないというのは本当か? 知識がないから恐いようにも思えるけど、よく考えると知識が全くなければ恐いと感じない。じゃあ、どんな知識があると恐いと感じるのか?
そう考えるうちに、「想像力」が恐さを呼び起こすのではないか、という意見がでてきました。


もうひとつ重要な論点としてあがったのが、「恐怖はあってもいい。むしろ、感じたほうがいい恐怖もある」という考えです。
たとえば、小さな子どもや赤ちゃん。何も知らずに火に触ろうとしたり、高いところにのぼろうとします。「恐いと感じない人は、みているこっちが恐い」。「恐い」と感じられるからこそ、危険から身を守れるのだとしたら、「恐い」と感じることはとても大事な力です。
しかし、むやみやたらに怖がってパニックに陥っては、身を守ることはできない。
そこから、「適切な恐さと不適切な恐さのちがいは何か?」という問いをめぐっても議論が展開されました。

参加したみなさんからは「恐さ(恐怖)がこんなに深いテーマだったなんて!」という驚きの声。残念ながら、みんなが納得する答えにたどりつくことはできませんでしたが、新たな問いをお土産に、笑顔で帰ることができました。

さて、いかがでしょう?
中之島哲学コレージュに参加された方なら、同じテーマでもこんなに異なる展開になるのかと驚かれるのでは?
哲学カフェは、参加者のみなさんが思考を紡ぐ場。参加者によって、内容は全然ちがいます。
私は1日で2度も同じテーマで哲学カフェに参加することになりましたが、それぞれの議論と二つの哲学カフェの違いを堪能することができました。