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2013/07/25

てつがくカフェ@南相馬のホームページ、つくってみました。

こんにちは、つじです。

てつがくカフェ@南相馬のホームページをつくってみました!

少しずつかもしれませんが、震災・原発事故という経験について語り直す場を、ひそやかな声に耳をすませながら、開いていこうと思います。

ぜひ、こちらのページをのぞいてみてくださいね。


2013/07/24

8/2 小金井哲学カフェ「『問う』とはどういうことなのか」

こんにちは、まつかわです。
本日も賛助会員の活動のご紹介。
小金井哲学カフェの佐土原さんより、次回哲学カフェのご案内です。


日時:8/2(金)19:00-21:00

テーマ: 「問う」とはどういうことなのか

場所:カフェ  broom & bloom(東京都小金井市前原町3-40-20-106)

料金:無料(カフェで飲み物などのオーダーをお願いします)

主催:小金井哲学カフェ 進行:佐土原


問うとはどういうことかを問う・・・なんとチャレンジングな試みでしょう。
参加をご希望の方は、小金井哲学カフェのサイトよりお申し込みください。


ちなみに同じ8月2日、大阪では、メタボについて考えるイベントがあります。
本日開催の「終末期に人工透析は必要?」と同じ会場(アートエリアB1)です。
こちらもふるってご参加ください。

2013/07/22

8/11 むこのそう哲学カフェ「怖いもの あなたはなぜ見たい」

おはようございます、まつかわです。
むこのそう哲学カフェより、次回開催のお知らせが届きました。


夏にふさわしいテーマですね。

カフェフィロ賛助会員の赤井さんが開催されています。
前回「考えるを考える」の報告が、こちらにアップされています。
「どんな様子かな?」と気になる方はどうぞご覧ください。

2013/07/20

7/28 「ボランティアは偽善?」@ひと・まち交流館京都

こんにちは、まつかわです。
来週、7月28日(日)、ひと・まち交流館京都にて哲学カフェが開かれます。
ご関心のある方は、こちら(もしくはこちら)より詳細をご覧ください。

実は、事務局のほうに「哲学カフェをやってみたい!」とご相談があり、カフェフィロ賛助会員、びわこ哲学カフェの主催者でもある山本さんをご紹介させていただきました。
このネットワークが、カフェフィロの財産です。

カフェフィロでは、会員の自主的な活動をサポートするだけでなく、オーダーメイドの対話を実現するためのサポート、進行役派遣なども行っております。
依頼をご希望の方は、カフェフィロ事務局までご連絡ください。

カフェフィロ事務局:info★cafephilo.jp
(★を@に置き換えてご送信ください)

2013/07/18

NHKでプラトンの『饗宴』

こんにちは、まつかわです。
NHKの100分de名著という番組で、今月はプラトンが取り上げられているんですね。
昨日の番組を観た知人にきいて、初めて知りました。
しかも、ゲスト講師は納富信留さん。

再放送も含めると、なんとか第3回、第4回は観るチャンスがありそうです。

「対話する哲学教室」の第1回「愛とはなにか」でもご紹介した『饗宴』。
ご関心のある方はこちらからチェックしてみてください。


2013/07/15

さする庵よりエンディングノート関連のお知らせ

こんにちは、まつかわです。
いつも「対話する哲学教室」でお世話になっているさする庵より、「エンディングノート座談会アンド研究員募集のお知らせが届きました。
関心のある方は、こちらをご覧ください。


いつもさする庵の秋田さんにお話をうかがっていて、先日、私もエンディングノートを入手してみました。
家族に、書いておいてほしいと思いました。
ただ、家族構成を記入する欄は一般家庭が想定されてつくられてるので、再婚されたご家庭の方などは記入しずらいでしょうね。
仕方のないことかもしれないけれど・・・う〜ん、もどかしい。

残念ながら私は今回は参加できないのですが、いつかそんなことも誰かと一緒に考えられたらな〜と、「晩年研究会」のご活動に興味深く見守っています。

2013/07/14

アラビックコーヒーのある美術館にて、新企画の打合せ

こんにちは、まつかわです。
昨日は岡山市立オリエント美術館にお邪魔してきました。



いつもお世話になっている「城下ステーション」とは目の鼻の先。
カルチャーゾーン」と呼ばれる文化施設の多い地域です。





前から一緒に何かできればとご相談していたのですが、ようやく実現の目処がたちました。
そう、岡山初の「ミルトーク」です。

ただし、ここに展示されているのは、絵画や彫刻などいわゆる「アート作品」ではありません。古代の人々が使っていた器や装飾品など、文化遺産です。
古代の人々の文化に思いを馳せながら、現代の私たちの暮らしにもつながる本質的な人間の営みについて考えることができるといいなぁ、と考えています。

詳細は、後日、カフェフィロのHP、メールマガジンなどでお知らせします。
お楽しみに♪


打合せでいただいた、館内の喫茶「イブリク」のアラビックコーヒーとチーズケーキ。


アラビックコーヒーを飲めるのは岡山でここだけだとか。
普段コーヒーはあまり飲まないのですが、チャイのコーヒー版ミルク抜きバージョンという感じで、チャイ好きの私はちょっとクセになりそうなお味でした。




2013/07/13

7/20 小金井哲学カフェ「自然のなかの曲線と都市のなかの直線」

こんにちは、まつかわです。
小金井哲学カフェの花野さんより、次回開催のお知らせが届きました。


日時:7/20(土)18:00-20:00
テーマ:「自然のなかの曲線と都市のなかの直線」

自然界に直線はありません。植物や地形などは不定形な曲線で型作られています。
一方、人が生活する場所には、曲線もありますが自然には存在しない直線も溢れています。
今回は、自然に存在する曲線と人工物に見られる直線について話し合いたいと思います。

場所:カフェ broom & bloom(東京都小金井市前原町3-40-20-106)
料金:無料(カフェで飲み物などのオーダーをお願いします)
主催:小金井哲学カフェ 進行:花野


曲線と直線から自然と人工物について考える、ちらりと話題に出ることはあっても、腰を据えて考える機会はあまりなかったかも・・・。

参加をご希望の方は、小金井哲学カフェのサイトからお申し込みください。

2013/07/11

女性のためのてつがくカフェ 「子どものしあわせ」 

「女性のためのてつがくカフェ」のひろいです。
東京都港区の神谷町光明寺さんで初の女性限定の哲学カフェを開催しました。

猛暑の中で「子どものしあわせ」を考えました
7月10日(水)午前、35度の猛暑にもかかわらず10名の方にご参加いただきました。
神風ならぬ仏風とでも言いましょうか、オープンテラスに吹いてくれた風のおかげで2時間の対話は無事に終了しました。

初回のテーマは「子どものしあわせ」。
平日の午前中開催ということもあり30代~50代のお母さん方が中心でしたが、10代の大学生も参加してくださいました。

簡単な自己紹介と哲学カフェの説明に続いてさっそく本題に。
「子どものしあわせ」をどういった方面から考えたいか、体験やエピソードとともにお話しいただきました。

1.子どものしあわせに経済(お金)はどのように影響するか
2.他人の子どもにも自分の子どもと同様のしあわせを願えるか
3.子どもの「sense of wonder」を大人はなぜ奪うのか
4.大人の考える子どものしあわせと子どもが考える子どものしあわせにギャップがあるのはなぜか
5.大人はなぜ子どもに対等性や平等性を教えることができないのか

考えてみたいこととしてあげられた5つの中から選ばれたのは4番。提案してくれたのは「子ども代表として参加しました」と自己紹介してくれた19歳の大学生でした。

「大人の考える子どものしあわせと子どもが考える子どものしあわせにギャップがあるのはなぜか」

ひとまず今は母というポジションを忘れて少女時代に戻ってみることを進行役から提案しました。皆さんは少し考えた後に子どもの頃大人に対して感じた不満が次々に出てきて、「そうそう」「あったあった」など頷き合ったり首を傾げたりして徐々に盛り上がっていきました。
 
・親や教師は子どもを決めつけたがる
・大人は他人の目を気にする
・大人の言うことには一貫性が無い
・大人は口ばかり

しあわせの規準は「自分」?「お母さん」?

つぎに、子ども時代にどういう時がしあわせだったかということをあげてもらったところ、しあわせを感じる規準には大きく分けて二つあるのではないかということになりました。
とにかく自分のやりたいことを自由にやれることが何よりしあわせだったという意見と、お母さんの笑顔を見るのがしあわせだったという意見です。
この辺りは気になるところですが、いったん休憩に。

後半は大人の考える子どものしあわせについて考えることにしました。
ところが、前半の流れから反省会&「子どものしあわせのために大人はどうあるべきか?」というようなこれからの抱負を語る建設的で前向きな会となっていきました。

・大人が世間体を気にするのは自己肯定感がないから
・口だけでなく行動する大人になる
・一人の人間としての多様性を尊重する
・あえて親の未熟さを見せたい
・親も成長過程であることを自覚し、子どもにも伝えたい
・子どもに対する所有欲を手放す

自分を客観視できて、前向きで、変化も厭わない柔軟性も持ち合わせていて、世界中のお母さん達がこんなに前向きで素敵なお母さんばかりだったら子どもたちはどんなにしあわせでしょう!

しあわせのギャップのなぜ?は次への課題

今回はここで時間となりました。「しあわせのギャップのなぜ?」について考えることはできませんでしたが、それは次の機会への課題にしたいと思います。また、「子どもはしあわせを意識していないのではないか?」という意見も出たので、その点も別の機会に考えてみたいと思います。

皆さんの感想としては、「いろいろな視点をもらった」「自分がこんなに熱い想いを持っているとは思わなかった」「話しているうちに自分の考えていたことが見えてきた」「まだまだ上に行けると思った」「暑かったけど風が心地よかった」「音がうるさかった(草刈りの機械音)」などをいただきました。

次回は8月20日(火)9:30~11:30です

引き続きまだまだ暑いと思いますが、ご都合のつく方はぜひご参加くださいませ。団扇を用意してお待ちしています!なお、9月は鎌倉哲学カフェの堀田利恵子さんを、10月はカフェフィロではお馴染みの井尻貴子さんを進行役にお招きする予定です。どうぞお楽しみに。

                                         文責: 廣井 泉











哲学カフェ@ナツホシ(サンナミジ)8/3


ほぼ3年、哲学カフェを続けてきた京都のカフェサンナミジさんでの哲学カフェ、「雑貨&貸しスペースナツホシ」で継続予定でしたが、残念ながら、お店のご都合により、今回で最後になりました...

どうぞ、最後の哲学カフェ@ナツホシ、別れを惜しみながらお楽しみください。

 日 時 8月3日(土) 14:00−16:00
 場 所 雑貨&貸しスペースナツホシ(旧カフェサンナミジ http://sannamiji.com/access.html
 テーマ 当日参加者から募ります
 進行役 本間直樹(カフェフィロ)
 参加費 1,000円(ドリンクつき)
 交 通 阪急京都線大宮駅下車5分
 主 催 カフェフィロ、雑貨&貸しスペースナツホシ
 問合せ info@cafephilo.jp(担当:本間)
 備 考 予約は必要ありませんが、会場の都合上席数に限りがあります。
     進行役は変更されることがあります。

*この哲学カフェでは、集まった人たちでテーマを決めて話し合う、というやり方を続けています。

「性と表現」について語ってみる

こんにちは、まつかわです。

行ってきました〜。久しぶりのラボカフェ、久しぶりの中之島哲学コレージュ。
「性と表現」について考えに。
今回は裏方でも進行でもなく、めずらしく、自分の話をする人としての参加。

これまでにないくらい疲れました。
なんであんなに疲れたのか?
ふりかえって考えてみると、まさに「なんて言い表したらいいんだろう」といちいち言葉を探しながら話していたからのような気がします。
とはいえ、やっぱり、それが「性を表現する」ことかどうかと問われると、迷いがあります。「性に関する何かを表現する」と言ったほうがしっくりくるかもしれません。

対話のなかで特に印象に残ったのは、ランドセルのように性を表す記号的なモノのことを「言語」と表現された方の言葉。

それから、「性的表現はセックスの代替物となるか?」という問いかけ。
今日の対話はセックスの代替物となる表現とは別の何かだと思うのですが、自分が足りないと感じていたのはそういう表現だったということに気づかされました。

対話が終わった直後はクタクタでしたが、帰路は充実感でいっぱいで、足取り軽く帰宅しました。


でも、2時間じゃ全然足りません。まだまだ話したいこと、ききたいことがたくさんあります。
荻野さん、秋田さん、松岡さん、またやりましょう!

2013/07/10

後悔するぐらいなら、行動したほうがよいのか?2

まつかわです。
本日2回目の投稿。

「人はどんなときに後悔するのか」をめぐって議論が展開した、7月9日グリーングラスの哲学カフェ。
に引き続き、特に議論が集中した3つのポイントをご紹介しましょう。

1.人が後悔するときの規準・条件は?

「マイナスの結果、失敗」、「全くできないことなら後悔しないけれど、『やればできたかも』と可能性があることは後悔する」、「よく考えたかどうか」など、いくつかの仮説が提示されました。
どんなときに後悔したか語っていると、同じ出来事・結果が起こっても、後悔する人としない人がいることがわかります。そこから、「後悔する/しないの規準は人それぞれ、自分のなかにあるのでは?」という意見がでました。一方で、「『いい学校を選ばないと後悔するよ』と世間の規準で後悔させられることもあってイヤだ」という方も・・・。

2.後悔と学習

もう一つ「後悔」について考えるきかっけとなったのは、「うちの夫は後悔もしないけど、学習もしない」という言葉。「こうしておけばよかった」と後悔したら、学習して、次は気をつけるようになる。後悔は学習を可能にし、その積み重ねによって、後悔することは減っていくのではないか、というわけです。
「いままで後悔ってマイナスのイメージしかなかったけれど、『学習しない』ってことは、後悔したほうがいいんかなぁ」
「でも、『失敗は成功のモト』とはいうけど、『後悔は成功のモト』とは言わないよね? だったら、後悔はしなくてもいいんじゃないの?」

3.行動する/しないってどういうこと?

「行動しないことによる後悔より、行動したことによる後悔のほうが大きいから、行動しないことを選ぶことが多い」。そんな声に対して「『しない』という選択も、『選択した』という意味では「行動した」と言えるのでは?」という意見もでました。
でも、もしそう言えるとしたら、その場合、「行動しない」とはどのような事態を指すのでしょうか?

この問いにはっきりと答えることはできませんでしたが、みなさんの話をきくなかで、ひとつ気づかされたことがありました。

たとえば、ある物を買うかどうか迷っているとき。
「買う」という選択をした場合、一見「行動した」ようにみえます。でも、実は、迷ったり考え続けることに耐えきれなくなって、「迷う、考えることを放棄する」ためにそれを買ったのだとしたら? それは「する」という選択というより、「しない」という選択と言えるかもしれません。(私の場合、こうやって後悔することが多い気がします。)
逆に、「買わない」という選択は、「引き続き考える」か「もっといい服を探す」ということを引き続き「する」という選択かもしれない。

何かを「した」ように見える行為が、何かを「しない」という選択である可能性。
他の方がどう感じたかじっくり聞く時間はありませんでしたが、私にとって、これは大きな発見でした。

実は私、「迷ってるんだったら、買いなさい」「やらずに後悔しないように、できることはなんでもやりなさい」と言われるのが苦手なんです。
買物でも、病気の治療でも。
やらないで後悔するよりやって後悔することのほうが圧倒的に多くて・・・。
だけどそういうとき私のなかにあるのは、「したくない」というネガティブな気持ちではなく、むしろ「もっと納得いくまで迷ったり、納得いくまで考えたかった」という気持ちのような気がします。
周囲の人からみたら、優柔不断で悩む時間がもったいなくみえるだろうけれど、納得いくまで迷ったり考える時間が奪われることに、(元気がないときは難しいけれど)ちゃんと抵抗できるようになりたいと思いました。

次回のグリーングラスの哲学カフェ


  • 日 時:8月27日(火)10:30-12:00です。
  • 場 所:神戸市北区子育て支援センター
  • テーマ:当日、参加者から募ります。
  • 参加費:300円

どなたでも参加できます。
どうぞ気軽にご参加ください。

後悔するぐらいなら、行動したほうがよいのか?1

こんにちは、まつかわです。
昨日、7月9日は、グリーングラスの哲学カフェ。
9名(女性8名、男性2名)の方が参加してくださいました。

グリーングラスの哲学カフェでは、毎回参加者からテーマを募り、多数決でテーマを選んでいます。
今回選ばれたテーマは、「後悔するぐらいなら、行動したほうがよいのか?」。

テーマを提案してくださった方は、「今まで後悔なんてしたことがなかったんだけど、最近、初めて後悔することがあって、その後悔したことが何かについてはまだ気持ちの整理ができていないから話したくないんだけど、「後悔」について考えてみたいと思いました」とのこと。

他の方は「最近後悔したことが一度もなかったって、すごい!」と驚きます。
気になって「今まで後悔なんて一度もしたことがないって人はいますか?」と尋ねてみると、手を挙げる人は誰もいません。
みんな、何かしら後悔をした経験があるようです。もちろん、私も・・・。

たとえば、こんな例がでてきました。

「後悔するぐらいなら、結婚したほうがいいのか?」 
「夏休みの宿題! 後悔するってわかってるけど、やらずに遊んでしまう」 
「迷っているうちに気になる服が売れてしまって後悔することがある」 
「でも、買って後悔することもあるよね?」

気になる意見も、どんどんでてきます。

「子どもには『後悔するぐらいなら行動しなさい』っていうけれど、自分はしない。迷って行動しないことが多い」 
「『後悔するぐらいなら行動したほうがいい』って、自分に言いきかせる言葉じゃない?」 
「ある時点では後悔したことでも、後から『あのときああしてよかった』と思うこともある」 
「自分は後悔しても、家族が『ええやん』って言ってくれたら、『そうか、よかったんか』と思える」 
「家族が『ええやん』って言っても、私が後悔したらそれは私の後悔やから、家族は関係ない」



こんなふうに、今回の対話では「後悔するとはどういうことか」ではなく、どちらかというと「人はどんなときに後悔するのか」をめぐって議論が展開しました。

特に盛り上がった論点をご紹介したいのですが、長くなりそうなので、いったん区切ります。

続きはこちら

2013/07/09

ミルトーク with 緑画 参加者の感想

おはようございます、まつかわです。
昨日のミルトークについて、報告に引き続き、参加者の感想もご紹介しておきましょう。


 「すごい作品だと思います。素材が草だし、それでしか出せない味があってすばらしかった。」 「プロと話せてよかった。少数で和室という空間?」 「自然とは何かということ、“もの”について、改めて考えさせられ興味深かった。 」
「難しかったです。笑 」
「いろんな方々の意見が聞けておもしろかったです。自分の制作と比べられたのも、いろいろ考えるきっかけになりました。」



村山修二郎さんのブログはこちら
昨日ちらりとおっしゃっていた、山口でのレジデンスの様子や壁画の写真もアップされてます。

今回のミルトークを共同で主催したArt-Philさんのサイトはこちら
『Repli02』をamazonで購入する方はこちらをどうぞ。



それでは、私は、グリーングラスの哲学カフェに行って参ります。
今日はどんなテーマになるかな?


ミルトーク with 緑画「自然とは何か?」

こんばんは、まつかわです。
日付が変わってしまいましたが、ミルトーク、無事終了しました。
ご参加くださったみなさま、暑い中、本当にありがとうございました。

ミルトーク中に、ゲストの村山修二郎さんが描いてくださいました。
葉っぱを紙にこすりつけると同時に立ち上がるドクダミの香り・・・。
残念ながら香りは伝わりませんが、動画をアップしておきましょう。


このあと、香りも作品に含まれるかどうか、描かれるものが自然物であることに意味はあるのか、これは「絵画」なのかインスタレーション的なものなのか、アートとは何か、自由だけど思い通りにならないって?etc...をめぐって様々な意見が交わされました。

和室で作品を手にとりながら鑑賞。贅沢。

みなさんが次々に村山さんに質問されるので村山さんのお話をきく時間が思いのほか長くなってしまい、ちょっと戸惑いましたが、それだけ色んな疑問を掻き立ててくれる作品だったのだろうと思います。
ときどき、みなさんの疑問のなかにある考えを掘り起こしたりしながら、たくさんのことを考えさせられました。

ひとつひとつ、丁寧に質問に答えてくれる村山修二郎さん

終わるころには、アート作品に向き合う自分自身の姿勢を問い返される結果となり、これを書いているいまもまだ、ドキドキしています。
「自然とは何か」についても、少なくとも答えのうちの一つを発見することができました。

村山さん、ご参加いただいたみなさん、村山さんと引き合わせてくださったArt-Philさん、会場を提供してくださったofficeドーナツトークのみなさん、ありがとうございました。
また今回のように、作品を通して語り合う機会を設けられたらと思います。

2013/07/08

本日のミルトークの会場は・・・

こんにちは、まつかわです。
本日19:00よりミルトークを開催します。

会場は、officeドーナツトークさんの事務所。
地図を載せておきますね。

ドーナツトークさんのサイトより拝借しました。

実は、まだちょびっと残席ございます。
直前ではございますが、参加をご希望の方は、メールの件名に「ミルトーク参加希望」、本文にお名前、ご連絡先を記入してお申し込みください。

宛先:カフェフィロ事務局
   info★cafephilo.jp(★を@に置き換えてご送信ください。)

2013/07/05

対話する哲学教室「生きる意味とはなにか」2

こんにちは、まつかわです。
あいだにドゥミ博士の紹介をはさんでしまいましたが・・・哲学教室の報告のつづきです。

「人には運命がある。人生とは少しずつ自分の運命を発見していくもの」と考える遥と、「人生は発明。生きながら自分でつくりあげるもの」という秋子(テキスト129~130ページ)のダイアローグを読んで始まった、6月30日の哲学教室。

遥派、秋子派、そのあいだ派・・・と、意見が見事に分かれる受講者のみなさん。あいだ派のみなさんにも意見をきいていくと、一人ひとり意見がちがうようです。

本題とは全く関係ないけれど、遥が父親と暮らしはじめてからずっと会ってなかった姉妹っていうこの設定、日本の教科書ではなかなかないよなぁ・・・と翻訳時からこの章を読む度に思ってしまう私。

ここでちょっとした論争を招いたのは、ある女性のこんな言葉。
「どうしても変えられない『宿命』はあるとおもうけど、『運命』は変えられると思う」

すぐさま、
「『運命』と『宿命』はどうちがうの?」
「『運命』が変えられるってどういうこと?」
「変えられるならそれは『運命』とは言わないのでは?」
と他の方から疑問が飛び交います。

哲学カフェもそうだけど、こういう疑問は大歓迎。
考えを深めるきっかけになるので、私は「思考のスパイス」って読んでいます。
よくよく聞いてみると、質問した方は「変えられないからこそ『運命』って言うんだ」という立場。それに対して、さきほどの女性は「運命」を生き方のようなものと考えている様子。最初に「『運命』はあると思う」とおっしゃっていたので、途中まで遥と同じ考えかと思ってきいていたのですが、どうもそうではなさそうです。
いくら議論をしても言葉のすれ違いで終わっては不毛なので、「『運命』は『宿命』とちがって変えられると思う人も、変えられないものを『運命』って思うんだという人も、単に言葉の定義を主張するだけでなく、その奥で自分が大切にしている考えは何か、自分に問いかけてみて」と促しました。

みなさん、うーんと唸りながら対話に集中。

さらに、step.2でトマス・アクィナスとサルトルの思想を紹介すると、次々とリアルな感想が飛び出しました。
「変えられないものはあると思うけど、(アクィナスが言うような)神様の存在というのはしっくりこない」
「運命って、DNAのことだと考えたらよいのでは?」 
「自分の人生は自分自身でつくっていくっていうサルトルの考え方、嫌いじゃないけれど、弱ってるときはキツイ」 
(災害や障害などを例に出しながら)「アクィナスのいう神とはちがうかもしれないけれど、なんで俺がこんな目に・・・と運命のせいにしたくなることはある」

そして、さする庵の秋田さんからも「『天職』はあると思う?」と、絶妙な問いかけ。
アクィナスが主張する神の存在についてはしっくりこなかった方も、「それならあるかも?」「でも、これが天職だって、誰がどのタイミングで判断するの?」と頭を悩ませます。

私は、「哲学とは思考の地図を描くこと」と思っているのですが、哲学者の思想はいわばその地図のなかの大通り。何度もたくさんの人がそこを通って考えてきた道。でも、その大通りだけを歩いていても見えないことがあります。
哲学者の思想に違和感を抱いてそこから自分の思考を紡ぎだすことは、みんなが知ってる大通りから一歩踏みだして裏道を自分で開拓することに似ているかもしれません。

今回、とりわけ私がハッとさせられたのは、終盤になって出てきたこんな言葉でした。
「私が『運命』と思っていたものは、単なる『偶然』だったかもしれない」
ちょうど私もみなさんのやりとりを聞きながら、「運命」、「宿命」、「神」、「天職」・・・理由のわからないなにかを説明するために、人間は色んなものを発明してきたんだなぁ、と感じていたところでした。
この言葉には、「運命はある」という大通りを裏道からふりかえってみるような、新たな視点が含まれていました。
それから私も、小さな自分の視点から、大通りに思いを馳せてみることにしました。
ひたすら「神」について考えたアクィナスは「偶然」についてどう考えていたのか。
サルトルが「人間は自由という刑に処されている」という思想を「選択した」とき、どんな気持ちだったのか。etc...

ちなみに、私の頭のなかの地図はこんな感じ。
・・・とっちらかってます。

哲学者の思想を道標にしつつ、それに対する違和感と向き合う時間。
哲学史を丸暗記してわかったふりをするのは簡単だけど、それじゃ「哲学する」ことはできません。
モヤっとする違和感を言葉にするのは大変だけど、一人ひとりの経験に基づいたリアルな思考が生まれる瞬間に立ち会うのは、何度体験しても感動します。



さて、次回の対話する哲学教室は、2ヶ月後。
8月27日(火)に開催の予定です。
どんなテーマで、どんな哲学者がとりあげられるかは、今月発行予定のメルマガ8月号をお待ちください。
せっかくテキストとは異なる順番で進めているので、できれば少しでも時事的なテーマをと考えています。
テキストをお持ちの方は、まつかわがどんなテーマを選ぶのか予想してみてくださいね。

次世代に伝えたいもの(岩淵さんの報告)

こんにちは、まつかわです。
岡山大学の岩淵さんが、6月30日の哲学カフェの報告をまちなかキャンパスのサイトにアップしてくださっています。
こちらからどうぞ。


ちなみに、岩淵さんは、おかやまデミカツ丼応援隊、通称「デミ活」の一員であり、ドゥミ博士のモデルでもあるそうな。

ドゥミ博士&デミカツ丼
(おかやまデミカツ丼マップより拝借)
モデルといっても、岩淵さんはこんな緑のヒゲの生えたおじいちゃんじゃなく、私と同い年のフレンドリーなお兄さんなんですが・・・彼が「『デミグラス』じゃなくて、正しい発音は『ドゥミグラス』だ!!!」と主張したことから、このキャラが誕生したそうな。
だから、「デミ博士」じゃなくて、「ドゥミ博士」なのね。

「デミカツ丼ってなんだ!?」というかたは、どうぞ「デミ活」のサイトをご覧ください。

2013/07/02

対話する哲学教室「生きる意味とはなにか」1

こんにちは、まつかわです。
今日は、ちょうど1週間前の6月25日にあった哲学教室のご報告をしましょう。

『中学生からの対話する哲学教室』というテキストをきっかけに始まったこの企画も3回目。開始当初は「とりあえず3回やってみよう」でしたが、おかげさまで受講者にも恵まれ、毎回濃密な議論が繰り広げれています。

基本的に大事にしていることは、哲学カフェと同じです。
一人ひとりの声に耳を傾け、言葉になりきらないモヤモヤと格闘し、結論を急がず、対話を通して考えることを楽しむ。そして、少しでも明日の自分の暮らしに関わる何か、「役立つ」ってわけじゃないけれど、自分や他者に向き合えるような何かを持って帰っていただけるといいな、と思っています。

でも、哲学カフェと異なることもあります。

まず、ひとつめは、その日のテーマについて意見の異なる二人のダイアローグを読むこと。

哲学カフェでは、複数の体験や例を比較することによって考えるヒントになることがあります。しかし、それは、あの人は家族を想定して話しているのに、こちらの人は職場の場合を想定して・・・と議論がすれ違うリスクにもなります。
また、全員にわかりやすい例を出すのはなかなか難しく、それを探すのにけっこう時間を食ってしまうことがあります。いや、それはそれで宝探しのようで楽しい時間ではあるのですが・・・

この哲学教室では、テキストの各章の冒頭に掲載されているダイアローグを共通の参照点とすることによって、そういうすれ違いが起こりにくくなります。
もちろん、「たしかにこの場合はこうだけど、こういう場合はこうじゃない?」と受講者の方から別の例(反例)が出されて大きなヒントになることもあり。でも、一つのわかりやすい例が用意されていると、出発点がぶれないという利点がありますね。

しかも、一つの事柄について立場の異なる二人の(極端な)意見が示されるダイアローグ形式。
第14章「生きる意味とはなにか」を取り上げた今回の場合は、「人には運命がある。人生とは少しずつ自分の運命を発見していくもの」と考える遥と、「人生は発明。生きながら自分でつくりあげるもの」という秋子(テキストのお持ちの方は、129~130ページを参照してください)。
自分の考えはどちらに近いかと話し合うことによって、参加者の「体験」のほうではなく、一人ひとりの「考えの違い」というのがくっきり浮かびあがります。

誰か一人ぐらいは、遥と同じ考えの人、秋子と同じ考えの人がいるかと思ったのですが、今回は全くいませんでしたね。
参照する考えがあることによって、より細かく一人ひとりの意見のちがいを確認できるおかげかもしれません。
15人いれば15様のツッコミ(=見方)があるものだなぁ、と毎回感心しております。

そして、もうひとつ、哲学カフェとの大きなちがいは、哲学者の思想を参考にすること。
step1でダイアローグについてひとしきり議論したら、今度はテキストをもとに私から二人の哲学者の思想を紹介します。そして、再び哲学者の思想を参考に、再びテーマついて全員で議論します。

・・・と、ここで6月25日の回の報告をしようとして、「対話する哲学教室」シリーズの紹介&感想になってしまっていることに気づきました。(1、2回目報告をさぼっていたツケで?)
長くなるので、続きは別便で。

「テキストタイトルは『中学生からの』だけど、大人がやっても絶対面白いはず!」という思惑どおり。みなさん、経験豊富な大人ならではのリアルな視点から、哲学者の思想にツッコミをいれる様子をご紹介します。

テキスト、ご希望の方には会場で販売しています。
ちょびっと著者割あり。

報告:哲学カフェ「野良猫とどう付き合うか?」

三浦です。
先週の土曜日に猫カフェCats Galleryで行なった哲学カフェ(別名ネコトーーク)の報告を、テーマ提案者かつ進行役の安田さんが書いてくれましたので、代理で投稿させてもらいます。


哲学カフェ@名古屋のネコトーークシリーズ、今回のテーマは「野良猫とどう付き合うか?」でした。テーマ提案者は私、安田です。自分の家の近所で実際に起こった野良猫をめぐるトラブルをもとに提案させてもらいました。

当日の議論はいくつかに整理できそうな複数の話題の流れの間を行きつ戻りつしながら進みました。テーマ提案者の立場から今回のテーマに沿った話題をレポートするつもりでしたが、しかし、振り返るにつれ、当日のトークで生まれた一つの議論の示唆の深さに改めてうなってしまいました。本来のテーマに沿った対話の中で起きた議論ではないのですが。。今回、是非これをレポートさせてください。

さて、問題の議論が始まったのは、どなたかが、
 
「野良猫はよく見るけど野良犬はこのごろは見かけなくなった。なぜ?」
と、ふと問いかけたところからです。この質問に対し、
 
「野良犬を放置しておくと人を噛むなど直接の害があるのに対し、野良猫はたいてい人を見れば逃げるのであまり人に害を及ぼさない。だから野良犬はすぐ捕獲されてしまうのでいなくなる一方、野良猫は放置されて問題化しやすいのでは。」
という分析意見が出ました。そして、この分析に対し、一方から
 
「人に害をなすから(犬は)捕獲する(=人に害がないから猫は捕獲しない)、というのもどうかと思う。そう考えると、(野良動物を)排除するのも飼うのも、(人の都合だけで動物の運命を決めてしまう点では)同じことかもしれない。飼うのだってもしかしたらかわいそうなことをしているのかもしれない。」
という感想が出たかと思えば、もう一方では
 
「(飼うのを)かわいそうと思うのは、人間側の思い込みかもしれない。動物病院で働いていた経験からいうと、飼い主が本当に大好きな動物もいる。かわいそうとは一概にいえない。」
などの反対意見も出ました。こうしてトークは「野良猫とどう付き合うか」というテーマを離れ、「何が本当に猫たちの幸せか」のような方向に進みました。

ということは、このときの私たちは
1.ある種の動物たちは、人間が一方的に自己都合で使ってその幸せを踏みにじってはならない。(ある種の「幸せになる権利」がある。)
2.猫はその種の動物である。
3.したがって、野良猫たちとの付き合い方を考える上では、彼らのその「権利」を踏みにじらない付き合い方を探すべきである。
のような理路で考え、3の前提のもとで話していた、ということだと思います。あたかも、「野良猫とどう付き合うか」という質問が引き金になって、この1,2,3が自動的に私たちの議論の前提として設定されてしまったかのように。。。

この後、話題は転々と移りましたが、「一周」してまたこの話題に戻りました。ただ、
 
「猫たちが話せたらなあ」
という慨嘆による、一種のジレンマの吐露という形で。つまり、「相手の『幸せになる権利』を踏みにじらないで付き合おう」という前提で付き合い方を考えているのに、当の相手が言葉が話せない相手である、ということに、問題の本質とジレンマを、私たちは見つけたわけです。踏みにじらないためには、話し合って、相手の納得(インフォームド・コンセント?)を得た上で付き合い方を決めるべきなのに、相手が話せない以上、納得を得ることはできない、というジレンマです。

本当はこのほかにももっといろいろな話題が出ました。しかし、私としてはこのジレンマにいたるまでのトークの理路(1,2,3の前提)とこのジレンマそのものが一番印象に残ったので、レポートさせてもらいました。

「べき論」を論じるいわゆる倫理の文脈では、私たちは、いつのまにか「幸せになる権利」を互いに有する個体たちからなるコミュニティ(私たち自身を含むコミュニティ)を想定し、そして「互いのその権利を公平に尊重しあうこと」のような倫理原則を最高原理か唯一無二の原理であるかのように前提にしてしまうくせがあるようです。あまりに当たり前なので、そうと自覚するでもなく。そして、私たちのジレンマが示すように、この原理に則って実際の倫理問題を処理するためには、関わっている「当事者」たちが全員言葉を話せることが前提になります。これが基本です。なので、猫のように言葉を話すことが出来ない対象のことを何かの理由でこの「倫理のコミュニティ」に入れるべき、と思ってしまった時に、私たちはこのようなジレンマにぶつかる、、、ということのようです。
 
これを読んだ皆さんはどう思われますか?このような考え方の中に出てくる「幸せ」とは、「権利」とは、「公平」とは、一体何でしょう?そして、「言葉」は、これらと一体どう関わるのでしょう?
春に湯布院で見かけた野良猫。
その眼は何を語りかけている?

2013/07/01

次世代に伝えたいもの

こんにちは、まつかわです。
1週間に3回も哲学対話をすると、やった順番にはうまく思い出せませんね。
逆から遡って、まずは昨日、岡山大学の城下ステーションで開催した哲学カフェの報告です。

私、小さすぎてすっかり隠れちゃってますが・・・。
空いてるグリーンの席はカメラ係、岩淵さんの席です。

写真には映っていない2名も加えて、参加者は10名。
世代を超えて「次世代に伝えたいこと」について語り合います。

ちなみに今回のテーマは、何回か哲学カフェに参加してくださっている岡山市の職員の方のリクエスト。ESD(持続可能な開発のための教育)プロジェクトに関わるなかで、「受け継ぐとか継承するということはどういうことか考えたい」ということで、こんなテーマになりました。

次世代に何を伝えたい?残したい?

通勤で毎日みてる自然の姿、帰省の際にみる総社の五重塔の風景、松江城の井戸の抜け道、岡山市内を流れる西川の蛍、我が家の味(岡山寿司、お雑煮)、親の生き様・・・
「いいものだから残したい」そんな言葉をきいて、それまでじっと黙って耳を傾けていた女性が他の人に問いかけます。

残したいのはいいものだけ?

すると、今度は、原爆ドームや津波で打ち上げられた船など、痛々しい記憶を呼び起こさせるものが挙げられはじめました。
「被災者は見るのも辛くてイヤだろうけど、同じ痛みを繰り返さないためには残すべきなんじゃないか」


何を伝えるかだけでなく、どう伝えるかも大事

「モノを残すだけでなく、そのモノに込められた意志も伝えないと意味がない」
津波で陸に打ち上げられた船なんかは、「なんで船がここにあるの?」とそこに存在するだけで心を揺さぶる力があります。しかし、そこにあるだけでは、それがそこにある意味が伝わらないこともある。そうしたものについては、積極的にその意味も伝えていく必要があるのではないか。そうした意見が2時間のあいだ、言葉を変えながら何度も繰り返しでてきたように思います。
「受け手が受けとめられるように伝える必要がある」
「与えることが大事なんじゃなくて、相手が元気になることが大事」

何もしなければ、失われてしまう

また、こうしていろいろ話しているうちに、「あえて残そうとしなければ失われてしまう」という共通の前提が浮かびあがってきました。
「何かを残すということは、新たに創造するのと同じぐらいのコストやエネルギーがかかる」という指摘も・・・。

次世代に伝えるためには、水平方向のやりとりも必要

「次世代に伝える」というと上の世代から下の世代へと垂直方向の一方的なやりとりをイメージしがちですが、具体的な例を考えていくと、史跡や自然などはもちろん、家庭の味といった私的なものであっても、自分がいなくなった後まで何かを残すことは自分だけではできないということがわかります。
個人的に、「何かを次世代に残すためには、同時代に生きる者同士のやりとりが不可欠である」というのは大きな発見でした。

偶然ではありますが、折しもこの日は岡山大空襲があった日の翌日ということで、戦争についてどう伝えていくかについても時間を割いて考える展開になり、ちょっとしんみりした回となりました。(7月7日まで、シティミュージアム岡山戦災に関する展示が開かれているそうです。)

でも、「次世代っていわれて誰を思い浮かべる?」という問いかけに「子ども」と即答する人も、「自分はまだまだ受け取る側で、伝えるということが想像できない」という人も、自分の記憶や気持ちにしっかり向き合った回だったのではないかなと思います。

終了後、松江から来て初めて参加された方から「アタマで考えるだけでなく、すごく感情を揺さぶられて、有意義な時間だった」という感想をいただきました。

松江から参加された方がお土産にくださった人形焼。
みんなで美味しくいただきました。

今後も、岡山の哲学カフェは、カフェマスターの岩淵さんと、様々な人たちと交流しながら、月1ペースでまったり開催していく予定です。

次回は、7月28日(日)。
行政書士として障害者の支援をされている瓜生浩輔さんをお招きして、「能力によって選挙権を制限することは許されるか?」というテーマ考えます。
いわゆる「成年被後見人選挙権訴訟」を糸口として、子どもや私たちの選挙権についても考えられたらと思っています。
関心のある方は、どうぞお気軽にご参加ください。
詳細についてはこちらをどうぞ。