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2014/05/13

報告:哲学カフェ「フィロソフィーと何か?」その2

三浦です。
昨日の夕方に4/26の哲学カフェの報告を投稿しましたが、その日の夜に、3月のティグレでの哲学カフェの報告を書いてくださった高木さんからも報告文をいただきましたので、こちらも投稿させていただきます。

今回の哲学カフェは参加者の方の紹介で名古屋駅のカフェ・ぶーれで初開催となりました。大きな窓から春らしい名古屋の街並みを眺めつつ熱心に言葉を交わす姿はさながら部活動のようです。カフェ・ぶーれで開催する哲学カフェでは、哲学カフェでの活動を更に有意義なものにするにはどうすればいいか、対話はどういった形で進んでいるのか、どうしたら対話が進むかなど、哲学カフェに対する研究の場としての狙いもあるそうです。今回は哲学のイメージや取り組む上での姿勢などに関する確認に加えて、初めての小休憩が入るなど、試行錯誤を感じさせる一日となりました。
そんなカフェ・ぶーれでのメタ哲学カフェ1回目のテーマは「フィロソフィーとは何か?」。その日はまずフィロソフィーという言葉に対するイメージについて話し合うことから始まりました。
例)
・哲学というイメージで色々な人が集まってきている気がする(宗教、倫理、道徳、価値観など)
・自分が考えるもの(勉強するだけではない)
・考え方(答えや見方)がいくつかあるもの
などなど。特に考え方(答えや見方)がいくつかあるものというイメージについては、哲学が多角的な提案や考え方がある一方で、それぞれの意見がそれぞれに正しいとする相対主義が進み過ぎてしまうと、そもそも話し合う意義が失われてしまうという指摘もありました。どうすれば哲学的に有意義な対話が出来るのか。今回の発案者である三浦さんは「答えよりも問いを重視すること。何にをつけるのかが大切ではないか」とおっしゃいました。
続いての話題は、イメージ調査で出てきた「哲学はわかりにくい」という発言から何故哲学はわかりにくいのか?という哲学のわかりにくさについて考えることになりました。理論自体が難しいという指摘は勿論、使用される語句が難解であること、また語句の使用に対して神経質であること(例えば芸術芸術性は似ているようで別のものを示している)など、私たちの日常生活における言葉の使い方とは異なっていることがわかりにくさに繋がっており、ハードルが高く感じられてしまうようです。一方「哲学がわかりにくいものだとするのなら、そのわかりにくさと向き合うことが哲学することではないか?」という反論もあり、わかりやすくすることによる変質にも注意が必要だと感じました。このわかりやすさについては、哲学について発信する人間が哲学を学びたい人哲学を第一に求めてきたわけではないが何らかの理由で接することになった人どちらを対象としているかが、アウトプットに影響を与えているという可能性もあります。

哲学のわかりにくさについて話し合う過程で、ではわかるとはどういうことかについても話が広がりました。私たちはわからない方が興味をそそられるかどうかということです。参加した方のイメージとしては、哲学は哲学を学ぶ人自体が哲学はこうあるべきという固い、一見さんお断りの印象があり、とっつきにくい。「考えればわかりそうなわかりにくさなら楽しめるが、難しすぎると考える気をなくしてしまう」というのは参加者の方の共感を得た意見だったと思います。哲学は万の祖と言ったのはアリストテレスですが、私たちにとっては哲学は遠い存在のようです。
そんな私たちが日常で哲学を感じる場面に、子どもからのどうして?があると話した参加者の方がいました。その方は普段から子供と接する際、向けられた質問に対して、自分なりに時間をかけて説明し、納得してもらうよう心掛けているようです。子どもの素朴などうしてに何故価値があるのかといえば、普段適当に流している疑問に気付かせることがあるからです。
この子どもを巡って、最初責任能力がない(法律的子ども)未成熟である(社会的子ども)という存在として議論がされていたように思います。では哲学的子どもとはどういう存在かというと、その分野で学び始め、素朴な疑問を抱き、質問出来る存在だという話になりました。私たちは大人になるにつれ問うことへの恥ずかしさや、改めて訊くまでもないと思ってしまったり、質問することが苦手になっていく一面があります。しかし羞恥心や躊躇いを上回る知りたい!という気持ちは、哲学をする上でとても大切ではないでしょうか。素朴な質問が既に克服したと思われる理論の穴を指摘する可能性があることや、疑問が尽きない為に哲学が今日まで続いてきたとも言えると思います。一方で、哲学的子どもに対応して哲学的大人とはどういう存在かについても話し合われ、疑問を洗練させていくこと、良い対話が出来る技術や態度などの生きた知識が身についていることとされました。哲学に触れる際、私たちは好奇心旺盛な子どもとして、成熟した大人として両面を持ちつつ取り組んでいくのが良いのではないか。…と、無理やりにまとめたところで今回も時間切れでした()
今回のテーマは、哲学カフェに色々なバックグラウンドを持った人が様々な物を求めて参加していることが改めて認識出来たと感じました。途中哲学は学ぶものではなく、するものではないか?という問い掛けがあったように、philosophyという言葉が愛智や希哲学とも訳されたことも踏まえると、本を読んで勉強するものというイメージよりも、もっと自由に広くそれを求める行為全てが哲学であると言えるのではないでしょうか。
以上のやりとりを総合して、一参加者として「日常の全てが哲学の対象になりうる。故にどのように問いを立て、どう答えていくかを重視するべきではないか」という感想を持ちました。具体的には答えの内容に賛同できるかはともかくとして、なぜそのような答えになったかをきちんと説明でき、分かち合える状態を目指すということです。自分の意見が伝えられているか、他の仲間の発言に真摯に耳を傾けられているか、疑問を共有できているか。答えを出せばいいというものではなく、答えが出るまでの過程や方法も非常に大切だと考えます。そういう意味で、哲学は対話を愛する紳士淑女の趣味と言えるのかもしれませんね。良い話し合いが出来るようになることは哲学に触れる大きな意義だと思いますし、これからの活動を一層充実したものにするためにも、常に心掛けていきたいです。
前回に続き、参加者(学生)目線からのとても素敵な文章を寄せてくださった高木さんに感謝したします。なお、ここ数回名古屋では、哲学カフェの模様を録音したうえで、なされた対話の質を検討するという新たなプロジェクトを始めつつあります。今回であれば、安田さんが録音データを聞いたうえでまとめてくださった対話レビューも存在します。よろしければこちらにアクセスのうえ、対話レビューのPDFをダウンロードしてみてください。