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2014/06/20

グリグラ哲学カフェ『プレゼントは喜ばなければならないか?』

液晶画面からこんにちは。behbluesです。
6/18、とてもひさびさに毛糸ボールをつかわず進行役をしました。

なんでボールを使わずにしてみたくなったのか、いまちょっと、書いてみたのですが、
哲学カフェ本のうさんくさい宣伝みたいになるし、
照れてしまうきもちも強かったので、
それはいつか、もっと素直に書ける時がきたら。


さて、今回は『プレゼントは喜ばなければならないか?』という問いが選ばれました。

この問いを出した方が抱えていたのは、
「自分の好みは知っているはずの家族から、
記念日に、明らかに自分の好みでは花をもらった。
なんでこれ?!と腹立たしいほどだったが、
家族の気持ちを考えて、喜んでいるふりをした。
リビングに飾ったが、その花があるあいだじゅう、いやな気持ちでいた。」
というエピソード。

今回の報告では、時系列順ではなく、さまざまに出てきた話を、
わたしにとってはこう繋がったよー!というふうに、再構成してみますね。

● 関係性を維持するために、喜んだふりをする必要がある
→でも、同じ「家族」という関係性でも、嬉しくないモノをもらったとき、
 こども相手だと「え〜〜」って言えるかもしれないが、
 夫相手だといえない。何が違うのだろう。
→喜んだふり、ではなく「おかえし」というしくみで返すこともよくある。
 とくにイエという単位が機能しているところでは、
 根強い「おかえし」カルチャー有。

● モノ自体は嬉しくなくても、相手の「自分のために選んでくれた」という気持ちは喜ばしいものではないか
(問いの「喜ばなければならない」ということについて、おおむね相手への表現の話として展開していきましたが、ここではどちらかというと自分の内面の話として目が向けられていた、と言えるかもしれません。)
→贈り手の側にたってみると、「選ぶ」の中には
 たのしい「気持ち」のほかに、
 たとえば記念日にはプレゼントするものだ、とか、
 しんどくなるような「社会性」といったものも、混じり合っていると思う。
→誰かに選んでもらうことよりも、自分で納得して選ぶことのほうが嬉しい。

● 嬉しくないプレゼントを「喜んだフリ」「はっきり断る」はできるが、「上手に断る」のは難しい
→嬉しくない「モノ」 と、 嬉しい「選んだり送ったりしてくれる気持ち」の
 両方がある時に、気持ちのほうだけを受け取る仕方がわからない。
→海外では、たとえば親からと祖父母からもらったクリスマスプレゼントが
 被ったとき、ともだちと交換することは、贈り手にとっても受け手にとっても
 当然。日本の場合、たとえば被ったことを隠したり交換したりしたら、
 そのことを後ろめたく思ったりするのでは。


そのほか、お金や行為といった、「モノ」とはちがうが
「プレゼント」とは似たようなものごとについて、
予期していないときにもらうプレゼントは
「モノ」にあまり重きを置かずうれしく感じる、
お金がないこどもたち同士のプレゼント、
などなどの話がありました。

個人的には、今回カフェのなかでは話されませんでしたが、
途中でぽろっと出てきた「所有権」ということばが気になりました。
プレゼントは、「はいどうぞ」と言った瞬間に、
たぶん贈り手の所有物から受け手の所有物に変わると思うのですが、
受け手の腕の中におさまってもなお、贈り手「の」モノという気分が
双方ぬぐえず、だからこそ嫌悪や拒絶がはばかられるのかなと思ったのです。
そこには、途中で話された「プレゼントには贈り手の人柄がよく現れる」
「プレゼントを贈るということはエゴ」という話もきっと関連するでしょう。

また、これも今回詳しくは話す時間がありませんでしたが、
途中である方がおっしゃった、
「むだなやり取りで学んでいくことがある」ということばにはっとしました。
わたしは何を学んでいけるだろ?

途中でペンを、青→赤→黒→緑の順に持ち替えていったので、
その色がそのままおおまかな話の順番です。(松川さんの発見を拝借!)

最後に、これまでのカフェフィロで、プレゼントについての哲学カフェってあったんかなあ?と思い、ちょっと探してみました。
近そうなものとして、「無償の贈与は成り立つか?」「贈り物」が見つかりましたよ。


読んでくださってありがとうございます。
それでは、液晶画面からごきげんよう。