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2014/06/30

報告:漫画de哲学「暴力とはなんだろうか?」

三浦です。最近、名古屋での哲学カフェの報告がすっかり滞っていて、申し訳ありません。
6/21に漫画de哲学の第3回目を行ないましたが、参加者が計22名にも達し、急きょ店内の他の場所から椅子を持ってこなければいけないほどでした。
名古屋では参加者の方々に、参加してみての感想などを「レビュー」というかたちで書いてくださるようお願いしていますが、今回は大学生の東さんに書いていただきました。
熱のこもったレビューをぜひお読みください。

はじめまして。東という一介の大学生です。ぼんやりした思いをちゃんと言語化したい、その触媒として対話を使おうという手前勝手な理由で哲学カフェを活用しています。拙いですが、レビューを書かせて頂きます。
 
今回の哲学カフェは「暴力とはなんだろうか」がテーマです。最初に提題者から『野望の王国』(原作:雁屋哲)の紹介がありましたが、残念ながら(?)その後あまり参照されることはなく、自由闊達に議論が進みました。暴力の線引き問題見えない暴力の存在暴力はヒトに固有と言っていいか暴力を抑えるための暴などの話題が行きつ戻りつしながら話されていたと思います。

最初に話題になったのは暴力の線引き問題です。
我々は、個別案件に関して意見の相違があるにしても、虐待としつけを区別しています。
つまり、不当な暴力と正当な暴力を区別しています。そして、規律や秩序を守るためには、正当とされる範囲に限り暴力を許容しています。この線引きは何によって決まるのでしょうか?――この問いには「個々人、各時代の価値観によって決まる」という答えで大勢の一致があったと思います。「廊下でバケツ」は、昔は当然の懲罰、現在では教師によるいじめであるわけです。また、永沢君やまるこちゃんが「これくらいはいじり」と思っていても藤木君は「いじめだ」と思っていることでしょう。(逆のパターン;永沢君が「いじめてる」と思っているのに藤木君が「いじりだ」と思っているパターンはあまりない気がします。)
時代による線引きの変化を大きな視野で考えると、現代は、暴力にますます厳しく敏感になっている、換言すると、社会はますます優しくなっていると思います。殴る蹴るの見える暴力だけではなく、同調圧力やセクハラ野次、先進国の発展途上国からの経済的搾取への我々の加担も見えない暴力として市民権を得ています。「人間は対等であるという価値観の広がりがこのような変化を駆動している」という意見や、「このような良識的な価値観に実感がついていってない」という意見、「やさしくなり過ぎ。もっと暴れてくれていいのに」という意見が聞かれました。

また、「「どうして人を殺してはいけないのか?」と問うインモラルな子供を殴って道徳を教えることは正当な暴力といえるのでは」という主張もなされました。同意する方が多かったように見えましたが、個人的には別にほっといてもいいじゃないかと思います。サカキバラ事件のように実際に殺人を犯せば司法により裁かれるので。

議論のためとはいえ、殴る蹴るの暴力と同調圧力を同じカテゴリーにいれることに感じる違和感はなかなか払拭できません。想定している暴力のモデルの違い確認するため、時々各々が定義を述べていました。まとめると以下のような感じです。

・動物を殺して食べること、つまり生きることそのものが暴力である。

・殴る蹴るや窓ガラスを割って回るような行為が暴力である。

・人に何かを強制する行為が暴力である。(etc. 同調圧力、タブーのすり込み)
 
・目的に対して手段が過剰であるような傷害行為もしくはそもそも無目的であるような傷害行為が暴力である。

・理念的には対等であるはずの二者のうちに出来た優劣関係を利用する行為が暴力である。

並行して、「赤ちゃんの夜泣きは暴力とはいえない、暴力的な赤ちゃんは存在しない」ということも確認されました(一同爆笑しました)。これは大変鋭い指摘だと思います。定義の三番目とも関連しますが、私は、暴力の主体となる能力は(そこそこ成長した)人間に固有だと思います。狂暴な動物は存在しますが、暴力的な動物は存在しません。この違いが生じる理由は恐らく、動物はお互いを対等にみる価値観を持っていない、価値観を持つような存在者ではないからです。「話せる」人が「話せば納得して従ったり、不服をいって従わなかったりする相手」を力で従わせることが暴力概念の含意の一つではないでしょうか。安部公房がある対談で「未開人は確かに残酷な行為をするけれど、それを残酷なことだと思っていない。われわれは残酷な行為を残酷と知りつつする」というようなことを述べていました。暴力も同型の構図を持っていると思います。

「秩序を形成・維持するための暴力」「暴力を抑制するための暴力」も幾度か話題になりました。撞着的に見えるこの現象をどう理解すればいいでしょうか。「指導医が研修医4人のうち1人をスケープゴートにして他3人と良好な絆を作っている」という事例が挙がりました。いじめや排外主義などにおいて一般的な現象ですね。暴力は人を目に見えるように味方と敵にわけて、味方の結束力をあげる効果があるのではと思います。また、配布された『野望の王国』の人物紹介に「日本は警察国家だ! 警察こそは日本最大の暴力機構だ! おれはその警察を乗っ取るのだっ!!」と勇ましいことを言っている角刈りさんがいます。このキャラクターはたぶん、「暴力を抑制するためにはより巨大な暴力機構が必要となるが、その暴力機構が乗っ取られたとき誰も止めることができない」というような問題を提起しているのだと思います。

 以下言い足りなかったことや感想など。
私が最初に暴力の定義として「手段の過剰」をあげたときに、「誰が過剰だと判断するのか」と質問され、「被害者や第三者」と答えました。対話中にあげられた、第三者的にみて暴力教師でも生徒たちにとってはよい教師の例は被害者のほうの発言の重みを与える例です。これはこれで真実だと思いますが、第三者が判断する人に含まれているのが個人的にはポイントで、その意義は被害者が暴力に過敏であるケースや鈍感であるケースが存在すると思うからです。

日本人の協調性に関して、『しがらみの科学』という本で面白い調査が紹介されています。その調査では被験者に「まわりの人が自分をどう思っているか、つい気になる」「自分と仲間の間では意見の不一致が生じないようにしている」などの項目がいくつ自分に当てはまるか答えてもらい、さらに同じ項目について、理想の自分ならどう答えるか、他人ならどう答えるか、と主語を変えて答えてもらいます。結果、日本人は「実際は協調的な生き方をしているが」「理想的には独立的に生きたい」「他人は自分より協調的であると思っている」という特徴があることがわかったそうです。また、独立的に生きている人は好ましいと思うかと尋ねたところ、大方が好ましいと答えたらしいです。

今回の哲学カフェでは同調圧力が暴力の一つとして挙げられていましたが、中には、自分が過敏になっているために「あるように感じられる」同調圧力が存在するかもしれません。
さらに、逆に、鈍感である例をあげると、DV被害者はしばしば「私が経験していたことはDVだったのか」と“気付く”といいます。本人が気づいていない被害は実は多いのではないでしょうか(確かめようがないですが)。

 ほかにも書き足りないことはありますがこんなところで。カフェの場の議論ももちろん刺激的ですが、議論のなかで言い足りないことが生まれ、それをお土産に抱えて帰り、改めてこねくり回すことができるというのが哲学カフェの、私にとっての魅力の一つです。
私(三浦)の位置から見た店内の模様

最後の一文がとてもうれしいですね。東さん、ありがとうございました。また、今回の進行役は南山大学の佐藤啓介さん(写真中央の白いシャツの方)に担当していただきました。大人数の対話を見事にさばいて進行された佐藤さんにも感謝いたします。ありがとうございました。