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2014/07/04

哲学カフェのつくりかた?

おはようございます、まつかわです。
昨夜は中之島哲学コレージュ「哲学カフェのつくりかた」ということで、『哲学カフェのつくりかた』の執筆者たちがこれまでどんな活動をしてきたかをお話したあと、参加者のみなさんも交えて哲学対話の面白さがどこにあるのか、地域によるちがいはあるか、哲学カフェを何に例えるか(野球?音楽?)、進行役はこういうときどう思ってるの?などなど、哲学カフェについての疑問や思いを語り合いました。




いつもは「2時間で考えるところまで考えよう」と割り切って集中するようにしているのですが、昨日は3時間ぐらいほしかったかも・・・。
他の実践者や参加者のみなさんの話をきいていると、「あ、私はこんなふうに思ってるんだ」「そういえば、こんなこともあったな」ということがたくさんでてきて、でもそれをなかなかうまく言葉にできなくて、もどかしい気持ちでした。

特に気になったのが、仙台で哲学カフェをしてる西村高宏さんの「あのとき(東日本大震災以降)、東北には哲学カフェを広める必要があった」という言葉です。

その直前に参加者から「どうしたら哲学カフェを広められるのか」といった発言があったのですが、そのときは「哲学カフェを広める」という言葉にひっかかりを感じました。哲学カフェを広めてる張本人なのにおかしいですね。
その一方で西村さんの言葉に共感するところもあって、その「哲学カフェを広める」ことに対するひっかかりと共感は何なのか、帰ってからもずっと考えていました。

それでまず気づいたのは、私のなかには「みんなが哲学カフェ(哲学対話)をすべき」だとか、無条件に「考えることはいいことだ」と思う気持ちが、皆無に近いということです。
その一方で、「『空気を読め』というプレッシャーから逃れて、暮らしのなかででてくる様々な問いについて思いきり考えたり、他の人の考えをきいたりしたい」という欲求は強く、それができなくなることに危機感を抱いてもいるので、そうした欲求に応えたいという気持ちはある。
哲学カフェをやりたくない人にもやってほしいとは思わない。そういう意味では、哲学カフェを広めなくていいんだけど、やりたい人がやれる状況をつくるという意味では広めたい。

特に東日本大震災以降の東北では、ないことにできない困難を抱えている人の人口密度が、他の地域とは比較できないほど高いだろうので、そういう意味で「哲学カフェを広める必要があった」んだろうなぁと思いました。
(西村さん、ちがってたらご指摘ください。)


そして、東北のように地域的に密度が高いわけではないけれど、たとえば病いやマイノリティの問題など被災以外にも、ひとりで黙って抱えていると押しつぶされてしまいそうな困難を抱えいている人はたくさんいるでしょう。
そういう人たちが、抱えてる困難や戸惑いを押し隠さずに話せるような対話を、これからもつくっていけるといいなと思いました。