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2014/10/02

守るには何が必要か?

おはようございます、まつかわです。
今日はグリグラ哲学カフェですが、その前に前回の報告がまだ・・・ですよね?
大変遅くなりましたが、7月16日の哲学カフェの報告です。



テーマはいつも、当日参加者から募ります。

  • 家 or住まう
  • 音楽と絵画
  • 守るには何が必要か?
  • 貧富の差は一生つきまとうのか?


の4つのテーマが提案され、多数決の結果、僅差で「守るとは何が必要か?」に決定しました。

最初に、対話全体に関して感慨深かったのは、この日はグリーングラスで久しぶりに子育ての話をがっつりきいたこと。
最初にテーマの提案者から少し集団的自衛権について触れられ、平和や命、またそれ以外に、パートナー、家族、種、イエなどが「守る」対象として挙げられました。
でも、それらは最初に触れられただけで、あとはずっとみなさんお子さんの話をされてました。
もともと育児サークルの活動の一環としてはじまったグリーングラスの哲学カフェですが、グリーングラスのみなさんのお子さんが成長するにつれ、またみなさんが哲学対話に慣れてくるにつれて、お母さんたちの関心も広がり、参加者層も広がり、お子さんの話を聞く頻度は減っていました。
それだけ、みなさんにとって「守る」ということは強く子どもと結びついているのでしょう。

では、「子どもを守る」とは具体的にどういうことなのでしょう?
最初にでたのは「成績を守る」でした。その方は、「子どもの成績を守るということは、子どもの幸せを将来も含めて守ることだ」と主張しました。そのためには、遊びたいという欲求を押さえなければならないので闘いだと。
また、まだ幼いお子さんのいるお母さんから、こんな例もでました。
「早くしないと保育園のバスに遅れてしまうけれど、自分で靴を履くとかそういうことも尊重したい。バスに間に合うということも大事だけど、自分自身でやるという大事にしたい。」
ここから、「何かを守るために犠牲は必要か?」という論点がでて、「犠牲にしてでも守りたいものがあるという気持ちが大事」という主張がでました。

ここから展開したもう一つの問いが、「守れたかどうか、どうやって判断するのか?」です。
犠牲にしてでも守りたいものがある。そのとき「守りたい」「守ろう」という気持ちはあるけれど、そのあと「本当に守れたかどうか」を、そういえばあまり考えたことがない。
それはなぜか?子どもの幸せを守れたかどうか、どの時点で判断するのか?
ここから、どうやったら守れたといえるのかの基準がいくつか挙げられ、さらに、「守るとはどういうことか?」という問いが展開しました。

ひとことで「子どもを守る」といっても、「バスに遅れないよう時間を守る」というひとときの出来事だったり、現在の欲求を我慢してでも手に入れたい将来の持続的な幸せだったり、内容も、それが実現されるタイミングもいろいろです。
こうしていくつかの問いを介して、再度最初の「守るには何が必要か?」を考えた結果、でてきた答えは「何を守りたいかを知っていること」でした。