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2016/02/29

からだの声

おはようございます、まつかわです。

2/27(土)の岡山大学の城下ステーションは少人数ながら、初めて哲学カフェに参加する方が3名来てくださいました。尾道で初対面だった方のお顔も♪

テーマは「からだの声」。
1月に私がインフルエンザやら薬の副作用やらで「最近、からだの声に抗えなくて‥‥」とぼやいていたら、一緒に哲学カフェをしている岡山大学の岩淵さんが「今度のテーマ、それでやろう」と言ってくださいました。
そういえば、岡山で哲学カフェをはじめてから3年以上がたちますが、「からだ」をテーマに扱うのは初めてです。
こんな論点がでました。


  1. からだの「声」という比喩について。なぜ「声」なのか?
  2. 理性、感情、からだの声、社会の声の関係は?
  3. なぜからだの声をきくのか?(ききたいのか?きいたほうがよいのか?)

このなかで、対話は2を中心に、ときおり3と行ったり来たりしながら進みました。
最初のうちは、理性、感情(=心の声?)、からだの声、社会の声(「上司の声」)の4つを区別して話していたのですが、理性と感情、感情とからだの声、社会の声と理性の関係を分析していくと、次第にそれらの区分が曖昧に‥‥。

たとえば、コーチングをやっている人のこんなお話。

 「心の声をきいて」と言ってもみんな頭で考えちゃってうまくいかないんだけど、「からだを感じてみよう」と声をかけると、心の声がきけるようになることがある。心の声に通じる道が開ける。

そしてもうひとつ、これは帰ってから気づいたのですが、個人的にとても大きな気づきがありました。
私はここ10年ぐらい子宮内膜症という病と付き合っているんですが、そのなかで「頭で考えたことは間違いがちだけど、 からだの声は(概ね)間違えないなぁ」と常々感じていました。
その理由を、私は単純に「体調が悪いときは思考力が落ちるから」と思っていました。
でも、どうもそれだけではなさそう。
私が「理性的な判断」と思っていたものには、私が思う以上に「他者の声」が含まれているのではないか。今回の哲学カフェで、そう感じました。
(哲学カフェのなかでは、象徴的に「上司の声」や「社会の声」と呼ばれていたものですが、「社会の」というと漠然としすぎるし、「上司の声」とは限らないので、ここでは「他者の声」と呼びます。)
特定の誰かに言われたことに限らず、「しんどいけど、明日までにここまで仕事を進めなきゃ」といった社会的な責任や、「約束を破っちゃいけない」という倫理観も含めて、すべてが本当に自分自身で考えたことだっただろうか?
一定期間が過ぎると治る病気なら、「理性の声」と「他者の声」とが入り混じっていても大きな問題はないかもしれない。理性には普遍性が求められるものだもの。
でも、治療法の確立されていない病を抱える人が、そうでない人を前提とした理性 ≒他者の声を鵜呑みにすることは、とても危険で、かえって迷惑なことじゃないだろうか?
そんなことを考えました。
かといって、もちろん、仕事が遅れたり、約束を破ったりしてもよいというわけでありまえせんが。
どうすべきかはよくわからないけれど、「理性の声」は「他者の声」の影響を多いに受けているというのは、とても大きな ヒントになりそうです。

哲学カフェは、話して、きいて、考える、そのプロセスそのものを楽しむもの。
結論を出したり合意形成をするための場ではありません。
それでも、自分自身の暮らしを思い起こしながら話し合っていると、暮らしの大きなヒントが見つかることがあるものですね。
私にとって、「理性の声」に紛れ込む「他者の声」は厄介なものですが、目の前にいる他者から発せられる声は、思考を刺激し前進させてくれる、とてもありがたいものです。


次回の城下ステーションの哲学カフェは、3月13日。
岸井大輔さんと「学歴」について考えます。

2016/02/27

尾道初の哲学カフェ「嘘をついていいのは、どんな時?」(3)

おはようございます、まつかわです。
尾道レポの続きです。

尾道レポ(1)はこちら
尾道レポ(2)はこちら



たしかに「嘘をついていいのは、どんな時?」を中心に展開したはずの対話が、いつしか「何が真実で何がそうでないか、誰がどうやって判断しうるのか?」問題にメロディーラインをかっさらわれてしまったという話でした。
こういうふうに書くと、「嘘をついていいのは、どんな時?」という問いが消えてしまったかのようですが、これは私が感じ振り返った対話の大雑把な流れにすぎません。
実際には、二つの問いそれぞれに対する発言が並存していたように思います。

そして、「嘘をついていいのは、どんな時?」という問いに関して、後半にもうひとつ忘れられない発言がありました。
もし友だちが嘘をついていたって後から知ったら、嘘の内容はどうあれ、その「友だち嘘をついた」という事実に心が揺れて平静ではいられないと思う。
ここで私は、前半のあるやりとりを思い出しました。
前回、前々回のレポでは省略しましたが、対話の序盤にこんな発言があったんです。

嘘をつくというのはおそらく人間しかしない力だから、嘘をつくことができるということをポジティブに考えてみたい。

これに対して、すぐには他の参加者からの反応はありませんでしたが、前半の終わりか後半のはじめぐらいかな?、どんな流れだったのかは忘れてしまいましたが、こんな反論がだされました。

さきほど、「嘘をつくのは人間だけ」という意見があったけれど、動物も嘘をつく。自分がやったこと(いたずらなど)なのに、やってないフリをすることがある。

これに動物を飼ったことのある人が賛同し、「嘘をつくのは人間だけ」という点は反駁されてしまいました。
しかし、だからといって「嘘をつくことができるということをポジティブに考える」ということまでが否定されたわけではありません。
「友だちが嘘をついたという事実に心が揺れる」という発言や、それまでの嘘をめぐる様々な体験談を聞いて、私はこんなふうに感じました。

何が真実で何が真実でないかわからないことだってあるけれど、やっぱり「嘘をつく」といえる行為は現実に存在する。
それは私たちが、自分の言動が現実を変えうると信じているからじゃないか。
もし自分の言動に何かを変える(影響を与える)力があると信じていないなら、わざわざ嘘をつくなんてしないはず。

自分の言動が何か、あるいは誰かに影響を及ぼしうるということ、そしてそう信じられること。これが、私が今回発見した、嘘のポジティブな側面です。
「よい嘘」ではなく、「嘘をつく」という行為そのものにポジティブさを見出せたのが、新鮮でした。

以上、長くなっていまいましたが、尾道初の哲学カフェ報告でした。
もちろん、ここに書いたことは、私=まつかわが主観的に編集した哲学カフェの様子にすぎません。
参加者のみなさんは、同じ対話を、それぞれ別なふうにみていたかもしれません。
真実はこのとおりでは決してありません。かといって嘘かと言われると困っちゃうのですが‥‥。
ここではポイントを3つに絞って書きましたが、実際の対話はこんな順番で進んだわけではありませんし、もっと別の重要なポイントがあったかもしれません。
それを楽しめるのは、実際に哲学カフェに参加した人だけです。

今回、哲学カフェをさせていただいたAntenna Coffee Houseは、映画のロケ地でも有名な「千光寺新道」を下ったところっていうんでしょうか。国道からだと、線路をくぐってちょっといったところにあります。




2016/02/26

尾道初の哲学カフェ「嘘をついていいのは、どんな時?」(2)

おはようございます、まつかわです。
昨日は結局書けずに寝ちゃいました。。。
焦らしちゃってすみません。尾道レポの続きです。

前編はこちら よりどうぞ。
(ところで、私が24日に「明日こそ続きを書きます」と言って、そのときは確かにそのつもりだったんだけど、結果的に「明日」である25日に書かなかった(書けなかった)。これは、「嘘」にあたるのでしょうか?)




「嘘とは何か?」や「よい嘘と悪い嘘のちがいは?」など、たしかに「嘘をついていいのは、どんな時?」という問いを中心に始まった哲学カフェ。
その後、この問いの前提そのものを揺るがす問いが浮上します。

といっても、その問いは突然現れたのではありません。
気づいたら、いつの間にか、私たちの対話のなかにいたんです。

そのときは気づかなかったけれど、振り返ってみると、最初のターニングポイントは、最後までみんなの関心をつかんではなさなかった、あの体験談だったように思います。

勤めだしてからしばらくして、私は「仕事 でうまくやるポイントはゴマをすることだ!」と気づき、それからずっと上司に可愛がられるようゴマすりをしてうまくやっていた。でも、ある時、その上司からある物をもらったのをきっかけに、私は一切ゴマをすることができなくなってしまった。。(「ある物」がなにか、哲学カフェでは聞いたんですが、ネット上では誰が読んでいるのかわからないので秘密にしておきます。)
それをもらって、私は「その人に対して、本当はビジネス的な関係だとしか思っていないのに、あたかもそれ以上の、まるで親友と思っているかのように偽ってしまった。もし自分が部下にそんなことをされたら、どんなに傷つくだろう」とものすごく後悔した。
この体験について、ご本人は「自分のことしか考えず、関係性を偽ってしまった。これは、ついてはいけない嘘だった」と言いましたが、参加者のなかには別の受け取り方をする人もいました。

ある人曰く、「それで上司も幸せだったんだから、そのまま嘘をつき続ければよかったんじゃないの? それはいい嘘だと思う」と。
別のある人曰く、「でも、そのゴマすりって、事実と異なることを言ったわけじゃないでしょう?あることを誇張して伝えただけじゃないんですか」と。
また別のある人曰く、「それをもらって元の関係に戻れなくなったということは、むしろ、上司の信じてる関係のほうが本当だったんじゃないの?本当にビジネス的な関係だったら、割り切って続けられたはず」と。

前者2つの意見は、まだ、「嘘をついていいのは、どんな時?」という問いをめぐって、序盤のやりとりの延長線上にある見解だと思うんです。
しかし3つ目の意見。ここからにわかに、怪しくなってきます。

ゴマをすっていた部下が信じていた関係性と、上司が信じていた関係性と、一体どちらが真実なのでしょう?
何が真実で、何が真実でないか、一体誰がどうやって判断するのか?

もう一つ、この真実をめぐる新たな問いを後押しした例があります。

私はこのメガネを通して世界を見ている。そのとき世界はとてもくっきりして見えているけれど、本当の私の眼で見る世界はもっとぼんやりしている。これって、嘘じゃない?

この例についても、やはり別の見解がでました。

裸眼で見ているぼんやりした世界のほうが嘘というか、間違っていて、眼鏡をとおしてみえている世界のほうが真実に近いと思う。

このやりとりを聞いて(実際には、この2つの発言は連続してでたわけではなく、間にいくつか別の例に関する言及をはさんで、後者の発言がでてきました)、私(=コンタクト愛用者)は、「後者の意見が正しいなら私の眼は一生真実を見ることはできないし、前者の意見が正しいなら真実は決して一つではなく人の数だけあることになるなぁ」と思いました。
最初に「嘘」の定義として「事実と異なることを言うこと」というのがでてきましたが、そしてそこに意図があるかという条件をつけるべきかどうかで意見が分かれましたが、こうなるともう、「事実と異なる」かどうかを誰がどうやって知りえるんだ?という疑問をを無視できません。
他にもそう感じた人がいたようです。

もうこうなったら、何が嘘で何が真実かという問いでは考えられない。うまく機能してるかどうかで考えたらどうかなぁ。

いつのまにか私たちの対話の伴奏を奏でていた「何が真実で何がそうでないか、誰がどうやって判断できるの?」問題が、メロディーラインをかっさらった瞬間でした。


‥‥これで終わりにしようかと思ったけど、もう一個忘れられないポイントがありました。
(3)に続きます。

2016/02/25

報告:西田幾多郎記念哲学館での哲学カフェ

三浦です。ブログからすっかり姿を消してしまっていました。
簡単なものでもいいから、その都度報告すればいいんでしょうが、なかなかそれが難しくて。

さて、2/13(土)および2/14(日)と、石川県かほく市にある西田幾多郎記念哲学館で、「Let's 哲学!」という総称のもと、二つの対話イベントが開かれ、その進行役をしてきました。
西田哲学館でもこういう参加者主体のイベントは初めてということで、スタッフの方々もうまくいくのか半信半疑だったようですが、両日ともに定員を超える参加者が集まってくださり、とてもありがたかったです。


初日は、5階の展望ラウンジで「義理チョコは必要か?」という哲学カフェが開かれました。「バレンタインは気楽に考えていたけど、思ったより重く考える人もいて興味深かった」と、ある参加者の方がアンケートで書いてくださいましたが、私も含めみなさんいろいろと「バレンタインデー」および翌月の「ホワイトデー」には頭を悩ませた(悩ませている)んですね。「今年は日曜日でよかった」とあちこちから言葉が漏れてました(笑)


翌日は、地下1階のホワイエという場所で、チベットを中心にフィールドワークを重ねられてきた文化人類学者の小西賢吾さん(金沢星陵大学講師)をゲストに招いて、「幸福とはなにか?」についてみんなで考えました。この日は全国的に春の嵐が吹き荒れ、あいにくの天気だったのですが、それでも40名弱の方々が午前10時から集まっていただき、とても勇気づけられました。

幸い西田哲学館のスタッフの方々にもよい手応えを持っていただけたようですので、来年度以降も継続して関わっていければいいなと思いました。たとえば、1階図書室での書評カフェ/テツドク!とか、2階の喫茶テオリアでの哲学カフェとか、外にある思索の道での哲学ウォークとか、さすがは「哲学の博物館」だけあって、活用できる資源が山ほどありますしね。


2016/02/24

中国新聞で哲学カフェが紹介されました

こんにちは、まつかわです。
ああ、今日も尾道レポの続きが書けなかった。ごめんなさい。

2月13日の中国新聞の「対話『カフェ』真理探究」という記事で、哲学カフェが取り上げられ、私のコメントも紹介していただきました。
だいぶ前に掲載紙を送ってもらってたのに、今日ようやく書類整理のついでにスキャンして、そうそうブログにも書いとかなきゃ!ってなりました。
「人文学の挑戦」という連載の一部で、記者の林さんが熱心に話をきいてくださって、私も哲学プラクティスへの思いを新たにしました。(2時間以上話してしまった気が。。。)
取材にご協力いただいた岡山の哲学カフェ参加者のみなさん、ありがとうございました。

記事の冒頭1/3は小川仁志さんの哲学カフェの様子が紹介されてます。
小川さん、最初は法学を学んではったんですね〜。
最近メディアで一緒に取り上げていただく機会がちょこちょこありますが、まだ面識はありません。
一度、小川さんの哲学カフェにも参加してみたいです。


尾道レポ、明日こそ書きます。たぶん。。。

2016/02/23

3/5、3/19の対話学舎えんたらいふ

こんばんは、まつかわです。
尾道レポが途中ですが、カフェフィロ賛助会員でもある対話学舎えんたらいふの齊藤充さんより、3月のイベント情報が届きました。
池袋のあたりに、「がんばれ!子供村ビル」なる場所あるんですね〜。
お近くの方は、チェックしてみてください。


===3月開催  Vol.1=================
「コラムで対話 ~街場の対話景色」
◎テーマ:当日決めます◎
日常生活の何気ない場面のなかに、さまざまテーマが潜んでいます。
とある新聞のコラムを読みながら、皆さんでひとつのテーマを設定し
さまざまな問いを投げかけてみることから始めてみたいと思います
どのような対話となるか楽しみです。ご参加をお待ちしております。

【日時】 3月5日(土)13:00~16:00  *30分前より受付*
=========================​===
===3月開催  Vol.2=================
「葛藤の正体を探る対話」
◎テーマ:「葛藤」◎
二編の詩を読み、それぞれの情景についての対話をきっかけに、
大なり小なり生じてしまう「葛藤」の正体を探ってみましょう。
どのような対話となるか楽しみです。ご参加をお待ちしております。

【日時】 3月19日(土)13:00~16:00 *30分前より受付*
=========================​====

<3月開催概要(共通事項です)>

【場所】 がんばれ!子供村 2階 コミュニティスペース
*住所:東京都豊島区雑司ケ谷3ー12-9
※東京メトロ・副都心線「雑司が谷駅」 1番出口
または都電荒川線「鬼子母神前駅」徒歩7分
JR、メトロ他各線「池袋駅東口」徒歩10分

【定員】 8名~最大10名(要予約/3名さま以上で開催)
 
【参加費】 300円(お飲み物・雑司が谷スイーツ付)

▼お申込みはコチラ▼
対話学舎えんたらいふ ホームページ★ねりテツページ
http://msentalife.wix.com/entalife#!tetsugaku-taiwa/cpu9

2016/02/22

尾道初の哲学カフェ「嘘をついていいのは、どんな時?」(1)

おはようございます、まつかわです。
昨日は尾道のAntenna Coffee Houseのご依頼で、哲学カフェをしてきました。
おそらく、尾道初の哲学カフェではないでしょうか?
そして私は、初尾道。

哲学カフェの開始前に、尾道散策。
午前中はカフェフィロの事務作業を片付けねばならなかったので、哲学カフェの前にほんの1時間弱歩いただけですが、すっごく楽しい!
みなさんが尾道散策を楽しめるようにと、哲学カフェ開始を15時にしてくれたマスターに感謝!

最初は初心者らしく、線路より北側の「古寺めぐり」のルートを表示どおりに歩いていたのですが、志賀直哉旧邸あたりから我慢できずにルートをはずれ、スマホ片手に一人でうろうろ。
迷子になりかけながらも、「いつか、ここで哲学ウォークをするぞ!」と決意したのでした。
「古寺めぐり」ルートもいいけれど、哲学ウォークをするなら「まつかわ迷子道」(いま命名しました)もなかなか面白そう。






開始30分前の14:30ごろ、Antenna Coffee Houseに到着。


最終的に16名の参加者が集まってくださいました。
テーマは、マスターと相談して考えた「嘘をついてもいいのは、どんな時?」です。

私は何度か似たようなテーマで何度か哲学対話をしたことがあるのですが、今回はまた、これまでとは全くちがう展開となりました。
ガンの告知や、認知症の方や病を抱える方に話を合わせるといった医療やケアに関するやや重めの経験からはじまって、上司へのごますり、写実的な絵画にみられる技法、つけまつげ、果ては「本当は視力が悪くてぼんやりとしか見えないのにメガネをかけてくっきり見えるようにしているのも嘘じゃないか」「いやいや、メガネをかけてみえるほうが本当じゃないか」といった話まで、なんというか、とにかく出てくる例の幅が広い!
そして、例の次元が変わるたびに、新たな問いや、テーマそのものの成立を揺るがす説が現れる。
まるで、万華鏡のような哲学カフェでした。
ひとつのテーマをみんなでクルクル回していたら、全然ちがう模様がどんどん出てくる!
そんな感じ。

最初、ガンの告知をしない例、認知症の方に話を合わせるといった医療やケアの例について話し合っているときは、「嘘」の定義や「よい嘘/悪い嘘」の線引きに関する意見が多くでました。

「嘘とは、事実と異なることを知っていながら、 意図して 言うこと」
「悪気があるかないかが重要なポイントじゃないか」
「自分のためにつく嘘と、相手のためにつく嘘がある」
「意図せず結果的に自分が言ったのと異なる事態が生じた場合も、『嘘』?」
「事実をあえて伝えないことや、何かを誇張して伝えることも『嘘』?」

この時点では、まだ、「嘘とは何か?」という問いも含めて、「嘘をついていいのは、どんな時?」という問いを中心に対話が展開していたように思います。
しかし、この後、「嘘をついていいのは、どんな時?」という問いが果たして成立するかどうかを問うような次元に、対話が移ったのではないか。
いま振り返ると、そう思います。

長くなりそうなので、今日はこの辺りで。
続きはまた次回。お楽しみに。


2016/02/21

なぜ私はここにいるのか?

こんにちは、まつかわです。
ただいま尾道へ向かう電車の中です。
尾道に行って忘れちゃう前に先週について哲学カフェのご報告せねば!

2月16日(火)はグリーングラスの哲学カフェでした。
テーマは3つの中から「なぜ私はここにいるのか?」が選ばれました。




最初に少し、「ここでいわれてる『私』ってなんだろう?」「『ここ』を祖先などのルーツとととるか、それともこうして哲学カフェに参加している『いまここ』ととるか?」など、この問いのどこに錨をおろすかについてのやり取りが。
そうこうする中でふと出てきた「意識と意志の違いは?」という問いから、議論がぐぐっと深まったような気がします。

「意識」には、行為を方向づける力はないけれど、「意志」には行為を方向づける力があること。
私の外にある環境によって、私の意志が影響を受けること。
意識も意志もなくなされる行為は惰性であること。
たちが「いまここ」にいるのには多かれ少なかれ私たちの意志が働いているけれど、それを可能にしている私たちの存在自体は祖先のおかげであること。
時代や環境によっては、自分の意志の入る余地なく、自分のルーツによって自分のいる場所が決まってしまうこと(アウシュビッツの例)。
「なぜ私はここにいるのか」という問いを問いたくなるのは困った時や退屈な時が多いが、思ったとおりにいかなくてもそう問わない時もあること(障害の例)。
etc...





実は、最初、惜しくもボツになった「私の境界はどこ?」というテーマをひきづってしまわないか、「なぜ私はここにいるのか?」についてちゃんと話し合えるかな?とやや不安でした。
が、最終的にちゃんと「なぜ私はここにいるのか?」について考えながら、
「どこからどこまでが私の意志なのか?」という問いを介して、「私の境界」についても考えられたのがよかった!
あの日のメンバーの関心が大きく反映され、二度とない景色を楽しめました。
「いまここ」で哲学カフェに参加しているにいる自分のことと、「ここ」がアウシュビッツだったら?という歴史的な事柄とを同じ俎上にのせて考えられたのも、よかったです。


※2016.2.22追記
写真が大きすぎて記事からはみ出てたので、小さく編集し直しました。失礼いたしました。
iPhoneのアプリからアップすると、いつも大きくなっちゃう。どうにかならないのかしら? 一応、サイズ編集アプリで小さくしたのですが‥‥ブログのアプリで写真の「小、中、大」が選べたらうれしいんだけどなぁ。

2016/02/15

来年度に向けての「哲学実践」あれこれ

こんにちは、まつかわです。
カフェフィロ内外で、来年度に向けての相談が続いており、てんやわんやの毎日です。

昨日は、岡山市立高島公民館へおじゃましてきました。
来年度のための打ち合わせ。
ここ数年やってきたお母さん向け、小学生向けの哲学対話に加えて、中学生対象の対話の場を設けようと企画中です。
うまくいくかどうかわかりませんが、現役中学生の協力もあり、なんとか実現しそうな目処がたちました。ほっ。
中学生は大層忙しいらしく、日時の設定に手間取ってしまいました。

そして明日は、〈グリーングラス〉の哲学カフェです。
こちらも、終了後、グリグラメンバーと来年度の活動について話し合う予定。
2004年から続けていますが、私もグリグラメンバーも事情は毎年少しずつ変わるので、続けるため毎年なにかしら変えていく必要があります。
外からみたら同じことをただ繰り返しているようにみえるかもしれないけれど、続けるためには変わっていかなきゃいけないんですね。

どんな人を対象に、何のために、どんな場所で、どんな曜日・時間に、誰とやるか、お茶や参加費はどうするか。
対話のなかで起こることだけでなく、こうした対話を生み出すためのプロセスにも、「哲学」はあると私は思います。
哲学って、自分の思考や実践を成り立たせている前提や条件、その限界に目を向け思考することだから。

哲学カフェや子どもの哲学、NSDなどが「哲学実践(哲学プラクティス)」と呼ばれるのもだからなのかな?
私はつい伝わりやすいように「哲学対話」という言葉を使いがちだけど、「哲学対話」という言葉では決して表しきれない「哲学実践」がそこにある。

京都出張のときに新幹線の駅で食べたほうじ茶ソフト。
看護師さんのための対話研修、来年度もご予約いただきました。

2016/02/14

2/27 小金井哲学カフェ「ビニール傘の盗難は何を意味するのか」

こんにちは、まつかわです。
岡山は春かと思うほどあたたかい日が続いていますが、みなさんがお住まいの地域はいかがですか?

小金井哲学カフェから、次回の開催情報が届きました。
お近くの方、ご関心のある方はぜひチェックしてみてください。


小金井哲学カフェを開催します。
哲学の知識は不要です。
どなたでもお気軽にご参加ください。

・日 時:2/27(土) 15:00-17:00
・テーマ:ビニール傘の盗難は何を意味するのか
・進 行:佐土原
・場 所:シャトー2F(ニーエフ)カフェ
(東京都小金井市本町6-5-3 シャトー小金井 2F)
・料 金:無料(カフェで飲み物などのオーダーをお願いします)
・予約は不要です。開始時間までにお越しください。

小金井哲学カフェ便り


2016/02/09

哲学カフェ@千里コラボ 「戦争になってしまうのはなぜ?」H28年1月30日 開催報告


哲学カフェ@千里コラボ 「戦争になってしまうのはなぜ?」
平成28130()14:00-16:00  進行:赤井郁夫

たくさんの方にご参加いただきました。難しいテーマかと思いました。
戦争について語り合うことはほとんどない日常生活を送っている私たちが色々な意見に接することができた良い機会だったと思います。
ご参加いただいた皆さまありがとうございました。

*******************************
◆戦争の起きかた
・テーマを個人として考えるか国として考えるか二通りあると思います。
・「戦争」を個人、あるいは人として考えると闘争本能のようなものを考えることになるでしょう。国として考えるなら武器の使用を伴う近代戦を考えることになると思います。
・なぜ戦争になるかについては、
   自然に起きる、つまり人間である以上戦争は避けられないものかもしれません。子どものケーキの取り合いと同じでどうせやるなら良いものを取りたいと言う欲求があって、領土や資源の取り合いになると人は戦争を起こすのかもしれません。
   意図的にあるいは仕掛けることで戦争が起きるのではないでしょうか。特に近代戦では兵器産業・軍需産業の圧力が存在し政治に影響を与えて戦争が起こるのかもしれません。
   巻き込まれることで戦争が起こることもあるようです。同盟国に引きずられたり、バタフライ効果のような影響だったり、誰も責任をまともに取らないことによって止まれなかったりして巻き込まれてしまうかもしれません。
・意図的に仕掛けて起きる戦争は大国の都合によって起こされているのではないかと思います。
・しかし、誰も得をしない戦争と言うのもあるように思います。
・原水爆がある今は世界規模の大戦はないように思います。しかし「戦争になるかもしれない状況」が続くことが都合がいいという勢力があると思います。
・冷戦と言うものがありました。取り決めの外へ出た時に戦争になるがそうでなければ大きな戦争にはならないような仕組みがあったと思います。

◆戦争に至る道
・隣国との緊張がある方が政治家の都合がいいのではないでしょうか。
・戦争のトリガーを引くのは政治家でしょうか。
・戦争を止めようとする優れたリーダーがいたらいいな、と思います。しかしそのようなリーダーは評価されないでしょう。
・近代的な戦争は国家間で行われますが内戦やテロは戦争でしょうか。
・人間はラグビーやサッカーなどのスポーツや暴走族の縄張り争いなど陣取り合戦のような戦いを好む本能を持っているのかもしれません。
・子供のころ戦争ごっこをしていました。戦闘機や軍服をかっこいい、と思いますが、そのことと戦争が始まることとはどう関係しているのでしょうか。
・戦争は良くないこと、とネガティブに捉えられているようですが、歴史的には民族の英雄が生まれ正義が行われる舞台となっているのではないでしょうか。そこには衝動や熱狂があったのではないでしょうか。
・戦争は個人では止められないように思います。それは何かが溢れ出るようなものであって止められないのではないかと思います。
・戦争は弱者を無視して進みます。

◆戦争と人間
・戦争になる根っこには自分が正しいと思っている、とかこの戦争は正義のためだという思いがあるのでしょう。
・他にもメンツもあるでしょう。
・人間だからこそ殺しあいをします。他の動物は人間のような戦争はしません。戦争は生きるためにするものではなくて、宗教や教育、同調圧力のためではないでしょうか。死を恐れないという価値観が正義と繋がっているように思います。
・世界各国の軍隊は「防衛」を謳い、「攻撃」を謳う国はありません。なぜ自衛と言い平和を守ることが軍隊を持つことになるのでしょうか。
・今までのご意見では指導者がごまかしているとか戦争を煽る政治家やメディア、利益を得る者が戦争を起こすと言うように他責の話になっているようですが、国民性によるのではないでしょうか。

◆国民の戦争
・メディアに乗せられて国民が戦争に向かっていく、というが、尤も悪いのは無関心だと思います。
・戦争になってしまってから、運が悪いなあなどと言っている人も多いように思います。
・卓越した力を持つ国があれば戦争は起こらないと思います。その意味で冷戦時代は戦争が少なかったと思いますし、これからは増えることになるのかもしれません。
・人口増加が戦争の理由である資源やエネルギーの確保を大義名分に仕立て上げるのかもしれません。
・戦争を知らない人が戦争をしたがると思います。
・戦争はなくなるのでしょうか、なくならないのでしょうか。
・情報がコントロールされているから、メディアによって一つの方向に流されていきやすいと思いますが、そこで個人が判断をすることが大切になってくると思います。

*************************************
戦争の周辺にまで言及しつつ人間の存在から軍需産業の存在まで色々な切り口が出されたと思います。切り口の一つから広がっていく探求の世界があります。例えば制服と軍隊の関係について、如何に軍の一体感を高めることが重要であり制服が担っている役割の大きさに気がつかされます。翻って言えば一体感を高める仕組みは案外単純なもので良いのかもしれません。

2時間程度では語り尽くせることではありません。参加いただいた方々がモヤモヤしながら帰っていただき、さらにご自分の考えを深める切っ掛けになったとしたらありがたいことだと思います。




2016/02/03

こたつむりカフェ「男らしさ?女らしさ?私らしさ?」としばらく休業のお知らせ

おはようございます、まつかわです。
先日ブログにアップした記事が、なんのミスか消えてしまい、だいぶご無沙汰していることになってしまいました。
消えた記事は、また今度書き直したいとおもいます。

さて、先日1月27日は岡山駅近くの奉還町商店街にあるスペースやっちにて、こたつむりカフェを開催しました。

こたつむりカフェのきっかけとなった哲学カフェ「女らしさ?男らしさ?私らしさ」についてもう一度考えようということでしたが、前の哲学カフェとはまたちがう展開となりました。
前半は「男らしさ」や「女らしさ」について体験談などをもとに話しましたが、そこから後半は「〈自分らしさ〉と〈自分〉のちがい」、「〈らしさ〉の罠」など、「〈らしさ〉とは何か?」についてかなりつっこんだ議論となりました。
「男らしさ、女らしさに抵抗するのに〈自分らしさ〉を持ち出すと、それはそれで別の〈らしさ〉に縛られることになってしまう」という意見と、「しかし、かといって、自分一人が〈らしさ〉にとらわれないふるまいをしたからといって、周囲からの偏見はなくならないので関係性を築くのが難しい」という見解のあいだのジレンマについては、今後も考えていきたいです。

こちらのfacebookページにもけんちゃんの報告が載ってるので、よかったらどうぞ。

そちらにも書いてあるとおり、こたつむりカフェはしばらくお休みになります。
会場のやっちさんがリニューアルのため一時休業するのと、メンバーの引越しなどが理由です。
よい機会なので、これまでの活動を振り返って次の展開を考える充電期間にしたいと思います。
また、気が向いたらなんらかの形で復活すると思うので、そのときは気軽にお立ち寄りいただけるとうれしいです。