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2016/02/29

からだの声

おはようございます、まつかわです。

2/27(土)の岡山大学の城下ステーションは少人数ながら、初めて哲学カフェに参加する方が3名来てくださいました。尾道で初対面だった方のお顔も♪

テーマは「からだの声」。
1月に私がインフルエンザやら薬の副作用やらで「最近、からだの声に抗えなくて‥‥」とぼやいていたら、一緒に哲学カフェをしている岡山大学の岩淵さんが「今度のテーマ、それでやろう」と言ってくださいました。
そういえば、岡山で哲学カフェをはじめてから3年以上がたちますが、「からだ」をテーマに扱うのは初めてです。
こんな論点がでました。


  1. からだの「声」という比喩について。なぜ「声」なのか?
  2. 理性、感情、からだの声、社会の声の関係は?
  3. なぜからだの声をきくのか?(ききたいのか?きいたほうがよいのか?)

このなかで、対話は2を中心に、ときおり3と行ったり来たりしながら進みました。
最初のうちは、理性、感情(=心の声?)、からだの声、社会の声(「上司の声」)の4つを区別して話していたのですが、理性と感情、感情とからだの声、社会の声と理性の関係を分析していくと、次第にそれらの区分が曖昧に‥‥。

たとえば、コーチングをやっている人のこんなお話。

 「心の声をきいて」と言ってもみんな頭で考えちゃってうまくいかないんだけど、「からだを感じてみよう」と声をかけると、心の声がきけるようになることがある。心の声に通じる道が開ける。

そしてもうひとつ、これは帰ってから気づいたのですが、個人的にとても大きな気づきがありました。
私はここ10年ぐらい子宮内膜症という病と付き合っているんですが、そのなかで「頭で考えたことは間違いがちだけど、 からだの声は(概ね)間違えないなぁ」と常々感じていました。
その理由を、私は単純に「体調が悪いときは思考力が落ちるから」と思っていました。
でも、どうもそれだけではなさそう。
私が「理性的な判断」と思っていたものには、私が思う以上に「他者の声」が含まれているのではないか。今回の哲学カフェで、そう感じました。
(哲学カフェのなかでは、象徴的に「上司の声」や「社会の声」と呼ばれていたものですが、「社会の」というと漠然としすぎるし、「上司の声」とは限らないので、ここでは「他者の声」と呼びます。)
特定の誰かに言われたことに限らず、「しんどいけど、明日までにここまで仕事を進めなきゃ」といった社会的な責任や、「約束を破っちゃいけない」という倫理観も含めて、すべてが本当に自分自身で考えたことだっただろうか?
一定期間が過ぎると治る病気なら、「理性の声」と「他者の声」とが入り混じっていても大きな問題はないかもしれない。理性には普遍性が求められるものだもの。
でも、治療法の確立されていない病を抱える人が、そうでない人を前提とした理性 ≒他者の声を鵜呑みにすることは、とても危険で、かえって迷惑なことじゃないだろうか?
そんなことを考えました。
かといって、もちろん、仕事が遅れたり、約束を破ったりしてもよいというわけでありまえせんが。
どうすべきかはよくわからないけれど、「理性の声」は「他者の声」の影響を多いに受けているというのは、とても大きな ヒントになりそうです。

哲学カフェは、話して、きいて、考える、そのプロセスそのものを楽しむもの。
結論を出したり合意形成をするための場ではありません。
それでも、自分自身の暮らしを思い起こしながら話し合っていると、暮らしの大きなヒントが見つかることがあるものですね。
私にとって、「理性の声」に紛れ込む「他者の声」は厄介なものですが、目の前にいる他者から発せられる声は、思考を刺激し前進させてくれる、とてもありがたいものです。


次回の城下ステーションの哲学カフェは、3月13日。
岸井大輔さんと「学歴」について考えます。